『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録14:28頁
その南九州人が、
種子島のナガタニ=長谷一帯(南種子町長谷(はせ)ン野)に
移住したことも、
チョウコクという漢字を「ハセ」と読むことでわかる。
「百済」を「ハツセ」と読むのは、
これも南九州人の癖だからである。
そこで勢力を蓄えて、
次に移住した土地もわかっている。
それもご存知の通り
「百済」もオオスミと読めるから大隅なのである。
この移住には「サカ⇒サタ」という大移住の標識地名が、
今なお現存していることもまた、
よくご存知である。
その時もう一波の移住者が鹿児島県の出水地方へ移った。
彼らも大隅人と同じく沖縄訛りを話したが、
百済は大隅という新しい当て字に変わったことから、
ウースンと呼ばれるようになったので、
出水への移住者は、それと区別するために、
ポセイドンの後半を国名にして
イヅンと発音するので「出海(イズウン)」、
のちに「出水」という当て字を使った。
ヅはドの沖縄訛りだから、彼らの方が大隅人以上に、
沖縄訛りが強く残っていた人々だったことがわかる。
出水から北へ一山(ひとやま)越せば
熊本県の球磨(くま)地方である。
ここから大隅の曽(ソ)於郡地方までを一括した地域名が
「熊襲」であることは、
古来よく知られた事実である。
その熊襲は
「肥・日」をクマと読み、
ソに「素」の字を使った当て字によって
クマモトと呼ばれるようになった。
またモトに「本」の字を使うと「熊本」だから、
次の発展地がどこか簡単にわかる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史学講座『創世』
歴史回廊
ウワイト
古代史の画像
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