2010年4月30日金曜日

ギリシャ神話とパーリ語が生んだ日本語

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:30頁

こうした事実が大量にある以上、

より一致している

「淡路島」がアフロディテへの非常に完璧な当て字であることは疑いない。

淡は今、アワと発音している。

アワは泡でありアフロディテが泡から生まれたという

神話の伝えにもまた合っている。

泡をアワと呼ぶ日本語は、

この神話が存在しなければ生まれなかったのである。

そしてそれは淡路島に隣接する阿波(アワ)の国名にもなっているのだ。

例の天皇たちの漠風諡号をつけた

淡海三船(アフミノ・ミフネ)の姓をみると、

この淡は振り仮名はアフだが、

その発音はオーと聞こえる。

これはなぜだろう?。

これもパーリ語のせいなのである。

Avakasaとokasaとは空間・隙間・全地域といったスペースを

意味する全く同じ言葉で、

アバ→アマと、空・天を意味するアマや、

傘・笠という日本語の語源になった言葉であるが、

avakkantiとokkantiも、どちらも降下・顕現といった、

同じ意味をもつ言葉で、

avaとoが同じものだとすぐわかる。

同様の単語は他にも多数あり、

その全てが語頭にくるava-とo-が同じ意味で

ただ発音だけが違うだけである。

このavaは日本語ではアワ。

それはoオーでもある。

淡の字をアワと読んだりオーと発音したりするのは、

このパーリ語のせいだということがわかる。

当時から我が国は、

現代と同じく「外国語活用国」だったのである。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月29日木曜日

位官は与那国王、履中天皇はオルぺウス

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:29頁

垂仁天皇の高句麗王名、山上王・位宮も、位宮は南九州読み「イク」。

このイクは「行く」でギリシャ語ならイオン「行く者」。

それが国名になってイオニヤ。

それのバーリ語訛りがヨーナ。

与那国はそれへの当て字だから、

位宮王とは与那国王を意味する日本語名だったのである。

これで卑弥呼も位宮も天皇家の先祖が、

パーリ語人のいうヨーナ、ギリシャ人だったことが、

さらに証拠を加えた。

だから卑弥呼がパーリ人化してギリシャ文明を

仏教文化に塗り替えはしたものの、

ギリシャ神話の影響は

履中天皇のイザナギの時代になっても続いている。

2神が国生みのあと生んだ皇子カグツチ(=鹿児津王(カグツキ))が

火の神だったために、

皇后イザナミは大火傷を負って死ぬ。

しばらくするとイザナギ天皇は皇后への恋しさが募って、

冥界へ亡き皇后を探しに出かける。

この話はギリシャ神話のオルペウスが、

死んだ妻を尋ねて冥界へ行った話と全く同じである。

これに気づいた日本人学者は少なくないが、

しかし、それ以上追及した人も研究の結果も知らない。

このオルぺウスも沖縄語ではウルヒユシになる。

沖縄の別名はウルマ、ウルシマ。

当て字は漆間、漆島。

ウルの国である。

ヒユシは日吉で猿田彦大神の別名で、

全て姓や地名として今なお現存している。

少なくとも沖縄地方がギリシャ文化圏だったことは否めない。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月28日水曜日

大和朝廷を生んだ美の女神の島・淡路

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:28頁

その淡路島の重要性を大地に深く刻んだのが、

興の巨大な古墳群だった。

それを辿れば、

東は皇祖・天照大神=卑弥呼と豊受の大神=壹與を

主祭神とする伊勢神宮に達する。

興がその北緯34.5度の直線を選んだのは、

それが淡路島の北端近くで

子午線の東経135度線と交わるからであった。

淡路島とは南北両端に聖地をもつ、

大和朝廷成立前夜の記念すべき巨大基地だったのである。

『記・紀』が淡路島を、

神武建国に先立ち「国生み」の出発点として特筆したのは、

当然のことであり、

また欠くことのできない最重要史実だったからだ。

それだけにそこには有形無形の文化財が沢山残っている。

まず島名の語源はギリシャ神話のアフロディテだったことはお話しした。

淡の本来の振り仮名は

アフ、路はロ、島はディテをディマ=ジマに宛ててある。

これはその命名の古さを示している。

我が国でギリシャの神々が信仰対象だったのは

チヌ・ゼウス(天・照)大神の巫女だった

卑弥呼が最後で、

彼女がソナカ=仲哀天皇と結婚して、

仏教女王になったあと衰退してしまったが、

ポセイドンから首済出水(ホセイズン)が生まれ、

アンピトリテから奄美(アンビ)と取手(トリテ)が生まれ、

ネプチューン(ローマ神話)から

丹生姐奴(ニフチューン)が生まれ、

トリトンから

都井(坤)登美・音(南九州持トリ=トイ、トミ=トン)など多くの遺物を

今なお残している。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月27日火曜日

八幡人(やまと)が近畿へ天降った『国生み』の実像

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:27頁

隼人町に霧島から流れくだる川は

「天降川」と書いて「アムリガワ」と発音される。

天降りを古語でアモリと読むが、

その大隅訛りである。

このアムリ、アモリと共通の名をもった

旧満洲・中国東北区のアムール河も、

当然、高句麗の人たちがつけた同じ名である。

このアモリが紀州にもある。

足守神社で、今はアシモリと発音しているが、

珍と済の天降りを知ると、自然にアモリと読めてくる。

これから類推すると、

大阪倭国が天智天皇の日本に敗れて、

東へ北へと大移動した本州最北端の青森もまた、

やはりアモリと読めてくる。

この淡路島からの天降りぬぎ矛(ほこ)を揮って

潮を掻きまぜて国=大和朝廷、

すなわち8世紀人の考える国家を造り上げた神業(かみわざ)なのであり、

それを強調したものが、

神武東征以前の国生み神話とされたものの正体だったのだ。

その沼島は渦潮で名高い鳴門海峡の直ぐそばにある。

神が矛で海を掻き回すという発想は、

渦潮の渦巻くここでこそ、始めて生まれる環境をもつ。

これでヤマトのつく地名が八幡浜でとぎれ、

次は大阪府の誉田八幡に飛び、

あとは奈良の大和しかないために、

一体どうなったのか?という疑問への答えが出た。

誉田八幡が重要な役割を果たしていることで、

宇佐からの八幡人(ヤマト)たちが四国を後にして、

淡路島を拠点に本格的統一政権を近畿に樹立したのが仁徳系天皇家、

いわゆる倭の五王だったのである。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月26日月曜日

精密に命名し詳細に読み取れる名詞群

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:26頁

これで興が巨大古墳造営に当って、

淡路島北端を起点に選んだ理由がご理解戴けたと思う。

先にお話しした通り興の父・済がイザナギの名乗りをもち、

最初に天降ったのが南端の沼島であり、

そこに帝柱・インギーラを造り、

真東の和歌山県海南市日方を選んで近畿攻略戦に乗り出したのだが、

これにも言語上の証拠がある。

日方がそれである。

大隅語と江戸っ子弁がとをシと発音するから

大隅人の済は日をシと発音した。

また古語では四方と書いてヨモと読むから、

日方はシモ、シモは下(しも)でもある。

済はそこへ下(くだ)ったのだから上はどこなのか?。

それが神(カミ)と書かれた立神で、

「発(た)つ上(カミ)」という意味なのである。

すると済たちが紀州のどこへ上陸したのかもはっきりわかる。

海南市に隣接した下津(しもづ)港だ。

これで沼島がなぜ最初で、

なぜ磤馭盧(インギーラ)島なのかよくわかった。

それは「白熱に凝り固まった」というような意味では全然なく、

天皇が造った建国記念碑=帝の柱(インギーラ)だったことが、

さらによくご納得戴けたと思う。

だが、すると先に紀(キ)伊の国は沖縄語のチヌだから、

紀州と茅沼を取ったのは倭王・珍だといっだのは間違っていたのだろうか?。

これは珍と済、父子二人が共に戦ったが、

珍が途中で死に、

済が完成したので済の事跡としてイザナギの国生みとされたが。

済は征服完成後、今は亡き父に紀州と茅沼を捧げたから、

2国にその名がついたとすると納得できる。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月25日日曜日

古墳時代天皇たちの凄い科学知識と文明度

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:25頁

ではその本国はどこにあったか?。

それが隼人から宇佐に移り、

伊予に移ったことは充分にわかったが、

伊予から直ちに近畿に移ったのであろうか?。

興は大古墳という巨大な建造物を造ったが、

それは伊予から指図してできる事業ではない。

確実に近畿こ都を移している。

それを使って考証してみよう。

仁徳陵→応神陵→雄略陵→崇神陵→伊勢皇大神宮の元伊勢。

これを逆に辿って西に延ばすと、

仁徳陵から大阪湾に出て淡路島の北部にぶつかる。

なぜ、中央部ではないのだろうか?。

それには凄い理由があるのである。

仁徳陵から元伊勢までの直線は、

真方位で正確に北緯34度と35度の真ん中、

34.5度線上に正しく引かれている。

そして淡路島北端部は東経135度の子午線上にある。

その岬の北の対岸・明石市が、

その子午線上にあることは有名だが、

淡路島北端部は仁徳陵から元伊勢に至る

北緯34.5度線とそれとが交錯する

ただ一か所の地点だったのである。

しかも古墳間の距離は、

現行のメートル法に合う尺度で、

キッカリ「11の倍数」kmに測定して配置されている。

世界最大の巨大古墳は大きさだけでなく

今の考古学者の水準を超えた

凄い天文学と方位学と測量学の総合科学によって配置されていた。

我が古墳時代の天皇たちは、

当時の中国人やヨーロッパ人たちより、

はるかに高い文化水準にあったことが見事に立証されているのだ。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月24日土曜日

名乗りの百済・新羅は半島に生まれた植民地

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:24頁

五王倭国の大きさは武の上表文に書いてある通り、

宇佐八幡宮あたりの視点で、

西は九州60か国、

そこから海の北にある朝鮮半島の99か国、

東に海を越えた四国の55か国で、

一大連邦を形成してはいるが、

山陰・山陽は敵の手にあり、

武はそれを

「句驪(クレ)が北を塞いでいて通さないので、

宋へ使いを送るのにも困難している」

と表現しているようにみえる。

四国からみれば、

勢力圏に入っていない山陽・山陰は、暗くじめじめした異郷で、

しかもそこには句驪の名に合う呉がある。

句驪はいうまでもなく高句麗系の勢力である。

しかし呉が山陽路を通さなくても、

朝鮮半島に領地をもつ武には、

余り邪魔にはならないはずなのに

「句驪が宋への道を邪魔している」というのは、

明かに半島の高句麗の勢力が強くて北鮮を押さえているので、

半島とは地続きの宋へ行くのに海路をとり、

大回りをさせられて大変な苦労をしているという訴えなのである。

こう理解できると五王の勢力範囲が半島に及んでいたことがはっきりわかり、

名乗りの中にある百済・新羅が半島に生まれていたことも明確になる。

この2国の名はすでにご存じの通り南九州に古く誕生した国名で、

それが奴国と同じく南から北へ移動したのである。

しかし同じ名の本国は列島の中にあったのだから、

半島の方は植民地名だったことがよくわかる。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

壹與の出身地は沖縄の伊江島

出典:加治木義博『言語復原史学会』大学講義録09:21~22頁

次は、

「正しい発音」が、史実の解明に、

どれほど重要なものかという実例をひとつお話しすることにしよう。

<壹與>はどこの出身か?。

これはどこにも記録がない、と思われていた。

だが私には複数の記録があった。

その記録の一つが<壹與>の「正しい発音」なのである。

まず、彼女は『かぐや姫』としての記録をもっているから、

彼女の出生は子供にもよく知られている。

彼女は「竹」の中で生まれた。

しかしそれは現実には、

そこらに生えている青竹の中から生まれたはずがない。

当然、<タケ>と呼ばれていた人々の中に生まれたのである。

それが高度の話術によって、

植物の竹にすり替えられた。

古代日本人がもっていたこの話術文化は、

日本列島で熟成した固有の文化だったか?。

それともすでに高度に発達した文明人が、

身につけて日本列島までもってきた外来文化だったのか?。

このことに注目すると、

ここでも<日本人のルーツ>の手掛かりがえられる。

今から3000年を超える昔の中国の<殷>(イン)時代に、

沖縄を本拠にしていた<カリエン>と呼ばれた人々が、

当時沖縄列島で世界一多産した<宝貝を養殖生産>して、

<通貨>として大規模に輸出販売する一大産業をいとなみ、

<殷>はその<貝貨の力>で中国最初の統一帝国を作りあげていた。

いま大阪府の枚方市などに、

「香里園」といった地名があり、

また幸利・公利・上里・小有里などという地名や姓が全国的にあるのも、

彼等が居住していた名残りだし、

彼らが独自の通貨商品にしていた宝貝も、

彼等の名を代名詞にして

「カウリー・コウリー」と呼ばれ、

今も貝類学上の学名として使われている。

この<コウリー>に漢字で当て字したものが「高麗」である。

この<高麗>は3世紀には省略されて「高」一字で表現され、

九州人は「コウ」「タカ」と呼び、

鹿児島人は「タケ」、

沖縄人は「ク」と呼んでいた。

『魏書倭人章』の「狗奴国」というのは、

このうちの沖縄発音だとわかるし、

「竹=タケ」は鹿児島人の用語だとわかる。

だから<壹與>は<カリエン人>の中で生まれた。

ところが彼女は<タケ人>の中で<黄金色>に光り輝いていたから、

<竹取りの翁>に見つけ出されて養女になった。

生まれたばかりの赤ん坊が知恵で光り輝くことはないし、

初生児の顔では、

光り輝くような美女になるかどうかも判定できないから、

これは文字通り黄金色に光り輝やくもの、

頭髪が<金髪>だったのである。

沖縄には今も遺伝でブロンドの人が生まれる率は日本で最も高い。

このことからも彼女が沖縄生まれだとわかる。

だが、その出生地が特定できるだろうか?。

できる。

カールグレンの発音リストによれば、

「壹與」の3世紀の正確な発音は「イエッ・ジョー」である。

ちゃんと「伊江」津(の)「嬢」だ、

出身地が記録されているのである。

発音は正確な復元が絶対に必要なのだ。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月23日金曜日

精密に再確認できた讃から?俀(ダイ)国までの都

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:23頁

もちろん、この2国だけで戦ったわけではない。

位宮はその前に高句麗からシンドゥの神・ビチュヌウを名乗る海人族の王・

ミチノウシ(道大人)に連れられて、種子島(竜宮)へ逃げ帰った時、

結婚した狭穂姫(豊玉姫・乙姫の義姉)の婿になって、

そのシンドゥ教徒を主力にしたことは、

邪馬壹国建国と同時に種子島の奴国(野間)が旧伊都国を解体改名して

新・奴国にしたことで充分にわかる。

その新・奴国が後に野間人(ヤマト)と呼ばれるようになり山門郡になった。

同じ山門は薩摩にもある。

読み替えは広域のものだったのだ。

その野間出身の八幡(はちまん)もまたヤマンと読めるから

「ヤマの=山の(王)」への当て字だ。

その山門が同じ福岡県内なのに筑前に変わると

ヤバタ(八幡)になっているが、

こちらのほうは八幡徒(ヤマト)が語源だとよくわかる。

次が宇佐の八幡で、武のいうとおり東55か国へ向かって海を渡ると

愛妓県・伊予のヤワタハマ(八幡浜)かある。

これは八幡徒の(都の)港を意味するから、

その背後にある大洲(オオズ)が都でなければならない。

大(だい)は俀、洲は国のことだからここが俀国だった。

その真南20kmに「宇和」があり、

その西の岬が大崎でウサキ=宇佐王、

ダイとオオの岬という名になっている。

この大崎と佐田岬とに囲われた大湾が

「宇和海」で、宇和島湾は大崎以南の湾をいう。

塩崎正会員のご指摘のお陰で、

これで書き落とした部分が精密に補足できた。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月22日木曜日

邪馬壹国はこうして生まれた

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:22頁

さらに見落としてはならないのは、

地理的にもインドより近い東南アジアからの移民が、

大量に入って日本人を形成している事実である。

それは日本語のなかに彼らの言語の中核になっている

マレー語単語の量が非常に多いことと、

彼らには100%近く見られる蒙古斑をもつ日本人が、

蒙古人の%より多いという事実がある。

彼らはそれらとともに宗教も持ち込んでいた。

それは原始シンドゥ教の一派で、

シバ神を中核として崇拝するシバ教徒だった。

シバはヒマラヤに住む山の神とされ、

インド中心に広く東西に広がっていた山岳信仰の本尊だった。

日本語で山をヤマと発音するのは、

このシバの別名のヤマが語源なのである。

位宮は卑弥呼政権を倒す戦略として、

それらのヤマ神教徒と妥協して彼らを味方にした。

だから『三国史記』高句麗本紀では

彼に「山上王」という肩書きをつける。

これはヤマガミという日本語の当て字で、

山神(ヤマがみ)を意味しているし、

邪馬(ジャマ)壹国の邪馬でもある。

卑弥呼当時はジャマと発音し。

ヤマと読まれるようになったのは

7世紀以後に唐の発音が我が国に入って来てからだが、

そのジャマはやはりシバ神の別名の一つで、

ジャバなどと同じくその国民の信仰が国名になっていたのである。

卑弥呼と対立する拘奴国王として屋久島南部にいた位宮が、

北半分の国・邪馬を味方にして、

壹與を女王に立てて邪馬壹国を作ったのである。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月21日水曜日

ヤマトの語源と定着の経過

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:21頁

卑弥呼政権の後身「愛媛の国」時代の首都が、

いまの宇和あたりにあったとすれば、

それにつづく

壹與系政権の「伊豫の国」誕生当時の首都はどこにあったのだろう?。

これは垂仁天皇がモデルである

『海幸・山幸』物語から見ていけばよくわかる。

海幸は巴利の都を南九州語で発音した

巴利都(ハイト)(=いまの隼(ハイ)人)のハイに、

中国語の海(ハイ)の字を当て字したもの。

山幸は、その海幸と争って勝った相手側であり、

その卑弥呼政権を倒して勝ち、

巴利国民=隼人に君臨したのは位宮と壹與たちである。

その跡を継いでそこに君臨したのが応神天皇の八幡。

この八幡はヤマンまたはヤマと読めるから、

海人に対して山人(ヤマト)と呼ばれたが、

それはカリエン人もギリシャ人も、

ヤマトやヤマトロンというシュメルの地名を知っていたからである。

しかしそれは位宮たちが、

そこからやってきた人々だというのではない、

八幡とは中国語でギリシャ人を指すヤバーナに対する

我が国での当て字であって、

その居住地の中心は種子島の野間(のま)にあった。

そこは奴国(ノマ)と書かれているから、

ヤマとノマの二つの発音が当時すでに使われていたことがわかる。

位宮と壹與の事跡にはイオニヤを意味するパーリ語

「ヨナ=与那(ヨナ)・徐那伐(ヨナバル)」のつく地名が多い。

また卑弥呼と壹與とは

天照大神や赫夜(かぐや)姫として

「金髪」だったことがが強調特記され、

ギリシャ系の出身を証明している。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月20日火曜日

裴清の相手はなぜ? 倭をイと発音したのか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:20頁

「倭」の字は人偏(にんべん)こ委任の委(い)の字を書くから、

漢音はイだと思ったし、

イネという言葉のもとは、

「委」の字を、女性が禾(カ)(イネ科植物)を担いでいる形で、

我が国は禾をイ、女をニョとしたから、

イニョ=イニ?イネという名詞が生まれた。

南九州語など日本語の方言で

「担(にな)う」をイナウと発音するのも、

この文字が語源で、

「ニナウ」の方が「荷をイナウ」を縮めたものなのである。

女性が農業労働を担当する、

この姿は、

当時の家事を一切女性にまかせる習慣を表現しているので、

「まかせる」こと、

委任の「委」を意味する単語として次第に拡大して使われるようになり、

今では語源の方が忘れられてしまったのだ。

このことがわかると、

裴清(ハイセイ)に説明した人物が、

倭をイと読んでも不思議ではない。

彼は倭の字をウワイと読むのは訓読で、

中国では委と同じくイと発音するのだと思い込んでいたのである。

裴清が書く、

その俀国までのコースと日程もまた、

やはり四国西部を指しており、

とても奈良までの行程ではない。

そこには大洲がある。

洲はシマとも読むから「大之国」、

ダイ国の跡そのものである。

その時代は倭王・武が高市に侵入した宋代の後、隋の時代なのだから、

奈良に都があってもよさそうなものなのに、

やはり都は愛媛県にあったことになる。

奈良はまだ辺境で、

単なる新領土、最涯(さいはて)の国境地帯にすぎなかったのが真相なのだ。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月19日月曜日

大分は倭(オオ)王(ギ)都(タ)。裴清(ハイセイ)の?国は倭国の誤りか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:19頁

ここで、いま見た地名について確認しておこう。

まず大分とは何だったのか?。

これは、本来は古音でオオギタと発音するというのが定説である。

それを考証してみよう。

この大=オオは「倭」とみると「倭王都(オオギタ)」、

倭王の都のある国を意味したことになる。

次の移動先・ウワシマは大倭之国とすると、倭をワと読んでいるが、

これはご存じの通り唐代以後の発音で。

4・5世紀ならウワは倭一字の発音でなければならない。

各地に点在するウワは統一日本国誕生以前の地名である。

これとは逆に能登の輪島のように確かに倭之国を意味していても、

そのワは唐代以後の発音だから、

大化の大阪倭国政権崩壊後の地名だとすぐわかる。

この時代につけられた東国のウワのほうは、

先に伊達氏のところでお話ししたように、

本物の大倭(ウワ)政権が、

一時的にせよ所在したことを示す大きな遺跡なのである。

ではこれまで私が、

宇和島をなぜ?

大倭之国としてお話ししてきたのか?ご説明しよう。

それは『随書』にある俀(ダイ)国は、

この大倭をダイイと音読したものに合うからである。

それを裴清(ハイセイ)に説明した人物は、

大をウ、倭をウワイと発音するのは訓読だと

思っていたから、

裴清には音読で説明する必要があると考えたので

「ダイイ」だと説明したのである。

だが通訳に不慣れな二人は真意を伝えられず、

裴清は聞いた発音に合う俀(ダイ)の字を当てたのである。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月18日日曜日

ウサギの足跡(そくせき)と神道と卑弥呼仏教の真相

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:18頁


ウサギは
倭王・讃=仁徳天皇 宇佐八幡=宇佐王=ウサギ→大山祇=ウサンギ→大三島神社=

ウサン之国(シマ)神社→阿波・讃岐=大・讃岐=ウサンギ→淡(オオ)(淡路島)佐野・王=

ウサノギ→大(阪府)佐野・王=ウサノギ→尾崎(オサキ)→大山陵=

ウサ・ン(の)陵(堺市の仁徳天皇陵)。

このように、

讃は大分県から四国を経て大阪府に至るまで、

その名乗りに一致する地名を残している。

しかし現実の支配地は阿波・讃岐止まりで、

大分の宇佐八幡はその出発点に

その功績を讃えて建てられた神社であり、

大阪府の大古墳は子孫である興が、

後世になってから建造した仏教式ストゥパだったこともまた明かである。

このことで彼が、

一人で神社と古墳の二つをもっていることがわかる。

それはどんなことを物語っているのであろうか?。

九州の出発点にいた彼等は当然、

壹與政権のシーラ・バッガ派で、

厳重な戒律に縛られた簡素、

清潔を至上命令とする仏教徒だった。

それが八幡大菩薩と呼ばれた真意である。

彼等はその教義に合わせて白衣を者たので、

白着(しらぎ)人=新羅人と呼ばれた。

これが『三国史記』が書く、

壹與を赫居世(赫居世国(カゴシマ))と呼び、

新羅始祖王とする理由である。

これが神道と呼ばれる宗教の実態で、

それはチベットやブータン仏教に今も見る

打太鼓(だだいこ)などを使う。

これらは今、

日本でみる中国様式の仏教とは似ていないが、

卑弥呼仏教の姿を伝えているのである。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月17日土曜日

卑弥呼系政権の東遷、それを追った仁徳天皇

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:17頁

だが『大隈正八幡縁起』は、

これも神功皇后であるオオヒルメが

北へ遠征して北部九州に祀られたが、

八幡は大隅に残って南九州を治め、

北へは行かなかったと記録している。

ところが北の大分県に宇佐八幡が実在する。

『記・紀』はこれを応神天皇の「名替え」で説明しているが、

最初の八幡とは別人の幼児が、

もう一人、八幡を名乗ったことは動かない。

宇佐八幡のウサは大山祇(オオヤマツミ)をウサンギと読み、

阿波・讃岐を大讃岐と書いたものをウサンギと読んだものに一致し、

『三国史記』の同じ時代の新羅・百済の王名が直岐(トッキ)王などと、

やはりウサギを意味する名になっている。

これらは全て一人の仁徳天皇に集中するから、

宇佐八幡は仁徳天皇を祭る社である。

これを見ると景行天皇の倭(ウワイ)政権が取った九州北東部は

仁徳天皇=倭王・讃に奪われ、

倭政府は愛媛に渡って卑弥呼系政権を愛娘の名で強調し、

宇和の名を残したが、

これまた奪われて壹與を意味する伊豫と呼ばれるようになり、

東端の阿波・讃岐まで仁徳天皇領になってしまった。

もう倭は完全に自分のものになったと自負した仁徳は、

宋への名乗りに「倭王(ウワイ)」を使用したのである。

このとき彼は高知を手に入れた。

有名な彼の皇居・高津の宮に該当するのは、

ここ以外にはない。

大阪の高津の宮は、のちの興の皇居なのである。

この讃が掌握した勢力圏をウサギの名を使って整理してみよう。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月16日金曜日

「卑弥呼の半島仏伝」が神功皇后の三韓支配

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:16頁

この<カイ>を<ケ>と発音するパーリ語の特徴は、

朝鮮半島にも分布している。

のちに高麗王朝の首都になった<開城>は、

私たちなら<カイジョウ>と発音するが、

地元では<ケソン>と発音する。

明かに<カイ>を<ケ>と発音しているし、

<ジョウ>を<ソン>と発音している。

南九州語も<ショウチュウ>(焼酎)を<ソツ>と発音する。

だから<ジョウ>は清音で>ショウ>、それが<ソ>になり、

語尾の<ン>は、南九州語の助詞「ン=の」だとわかる。

「ケソの町」という意味で<ケソン>なのである。

<陳寿>の『魏書』東夷の項には、

朝鮮半島に<韓人>・<穢(ワイ)人>・<倭人>が混任していることを

書くし、

三韓の小国名の大半が日本語であることは、

拙著でも繰り返し指摘してあるが、

このパーリ語系発音の実在は、

卑弥呼時代には南九州から高句麗までが

一体化した卑弥呼政権下にあり、

彼女が高句麗を名乗りにもつ孝霊天皇家の出であるという

『記・紀』の記録が正しいことも明確に確認できる。

このことは<日本の仏教>は、

欽明天皇のとき百済聖明王が日本へ伝えたというのが

最初の伝来だとして、

中国から朝鮮半島経由で入ったものだとして来た

在来の定説が明かに間違っていたことを示す。

それよりはるか前に、

<卑弥呼仏教>が南九州から朝鮮半島に入って広がっていた。

それが神功皇后による三韓征伐として記録に残った部分なのである。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月15日木曜日

全てがパーリ語、卑弥呼陵と断定できた可愛(エ)山陵

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:15頁

ここで、「愛」の発音が、

なぜ?「エ」になるのか?、

その語源が重要な大問題だというお話しをしよう。

それが南九州語の特徴であることは、

もうよくご存じだが、

それはなぜなのかまで、

理解しておく必要がある。

チベットの聖山・カイラーサ山という名はサンスクリット語で、

パーリ語ではケラーサと呼ぶ。

Kaiとkeの差がある。

アイとエの違いだとおわかりになるはずだ。

南九州語の特徴であるアイをエと発音するクセは、

パーリ語の発音だとわかるのである。

奈良地方の発音は愛はアイである。

パーリ語とも、卑弥呼とも全くつながりがない。

3世紀に奈良に卑弥呼がいて、

パーリ語が使われていたのなら、

今の南九州と同じく愛はエと発音されていなければならないが。

そんな伝承も形跡もまったくない。

卑弥呼を示すものは痕跡すらない。

卑弥呼と当て字された名は、

パーリ語の愛を意味するぺマカの沖縄発音だったのであり、

彼女はパーリ語を話すアソカ王統を継ぐ仏教倭人が戴く女王だった。

彼女パーリの名をもつ国・巴利国(隼人町)に都し、

そこで死んだ。

いま鹿児島県川内市に、

神代三山陵(じんだいさんさんりょう)のーつと呼ばれるエの山陵がある。

埃(エ)山陵または可愛(エ)山陵と書かれるが、

彼女の墓なのか記念ストゥパなのかはおいて、

その名と年代と位置とサイズから卑弥呼陵だと断定できる。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月14日水曜日

壹與政権に先行して東へ移動した卑弥呼系政権

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:14頁

だが垂仁天皇の命令に従ったのは邪馬壹国民だけだから、

倭国政権側の人々は、その後も殉葬を続けた。

それは例の景初三年鏡の出た古墳に明瞭に見られる。

そこにはその鏡をもった女性の柩を中心に、

それを守護する形で左右に男性が葬られていた。

だからこれは明かに位宮の禁止とは無関係な古墳で、

壹與政権系の人物の墓ではないし、

しかも女王の墓としか考えられない遺体配置になっている。

卑弥呼政権側の古墳であることは疑いない。

このこともまた、

倭(ウワイ)国政権は、首都・巴利国=隼人町での戦いで

位宮と壹與軍に敗れ、

首都を奪われはしたが消滅したのではなく、

東の宮崎県側へ大移動したことを示している。

そのコースは宮崎県の西都原(サイトバル)に

大量の古墳群を残したあと大分県へ進む。

この間(かん)の戦闘は、

卑弥呼側の闘将・景行天皇・大足彦忍代別(載斯烏越(タイシオジゥオ))の事跡として

『記・紀』に書かれており、

東に海を越えること千里の愛媛県に、

卑弥呼の語源・ぺマカ(パーリ語の「愛」)への当て字

『愛(え)』媛(ひめ)の国名を残したが、

それは後に壹與を意味する伊豫(壹與(イヨ))に変えられた。

まず卑弥呼政権の国になり、

後に壹與政権の国になっているから、

壹與政権は同じコースを進んでいる。

ここでウワが再び重大な問題になる。

壹與の国なら『邪馬壹国』という堂々たる国名がある。

卑弥呼政権の使った倭国=ウワイなど使う必要はないからである。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月13日火曜日

倭と邪馬壹国、古墳埴輪が2政権の差を示す

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:13頁

だから卑弥呼の死の直後には大冢が造られたが、

それは次の男王の手によるもので、

まだ卑弥呼系倭国政権時代である。

しかし女王でないといけないという宗教反乱にあって

王位を追われたあとへ位宮が乗り込み、

壹與を女王にいただく新政権を樹立した。

この時、初めて邪馬(ジャマ)壹国が生まれたから、

伊都国に滞在していた帯方郡使張政が、

彼より先に九州へ来て伊都国で卑弥呼に会った

帯方郡使・梯儁(テイシュン)が調査して、

報告した帯方郡からの行程衷に、

新たな情報として、

伊都国以南の国々、

投馬国・邪馬壹国・奴(ノ)国(福岡県)・不弥国の4か国を書き加えた。

この国々は梯儁の知らなかった国々で、

いずれも卑弥呼の死後に、

新しく生まれたり、移動したり。

重要な意味をもち始めたために、

政治の表面に登場してきた国々である。

もちろん卑弥呼は、

それらの邪馬壹国も福岡の奴国も不弥国も知らずに死んだ。

『日本書紀』は垂仁天皇、すなわち位宮が、

男王を葬った古墳に殉葬された隼人=パーリ人たちが、

死ぬまで泣き叫び続けるのを見て、

野蛮な悪習だから今後は殉葬をやめて、埴輪で代用せよと、

野見宿祢の提案を採用して命令したと書いている。

その記事の通り、埴輪のある古墳が確かに実在する。

位宮は古墳を禁止したわけではないから、その後も古墳は造られ続けたが、

これで埴輪のある古墳は邪馬壹国系の壹與政権側のものだと確認できる。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月12日月曜日

本学が初めて解いた「古墳人の謎」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:12頁

そしてそれらはさらに、

その政権が、同じ南九州出身であっても、

卑弥呼政権と壹與政権のどちらの後継者だったかまでも記録している。

それは興が、

天照大神や豊受大神の信仰を受け継いだ天皇だったことを立証しているし、

この二人の大神が卑弥呼と壹與であることも、

今では疑いのない事実である。

ではあるが卑弥呼は仏教女王だったのに、

皇大神宮の信仰は神道である。

このことは興が造営し始め、

その直線上に武である雄略天皇の陵が造られ、

それが皇大神宮に結ばれたのは、

倭の五王が単に古墳人だった事実のみでなく、

彼らが壹與政権の後継者だったことを証言しているのである。

するとこれはた五王に先行して大阪府に景初三年鏡を残し、

出雲に去った政権は旧卑弥呼政権の大隈の人々であり、

興の大古墳に先行する古墳群の建造者たちだったことが疑いなくなる。

こうして発掘考古学が解決の法をもたない

「古墳の謎」は、

私たちの「言語復原史学」によって始めて雲散霧消し跡形もなくなる。

我が国の考古学の遅れは、

本学を知らない無知が原因だというほかない。

『三国史記』は蓋盧王が古墳の造り方を知らず、

高句麗のスパイ道琳に騙され、

教えられて始めて大古墳群を造ったと書く。

これは高句麗も支配した孝霊天皇の子・卑弥呼は、大隈に葬むられたが、

壹與政権側の応神天皇以後は、

八幡社群や大三島神社などが示す神道であることに符合する。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月11日日曜日

用語の地域差が立証する倭の五王の出自(しゅつじ)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:11頁

倭王・武=雄略天皇が、

仮に在来説や邪馬台国大和説などの言う奈良県人だったとしたら、

高市王の彼は、タケシでなくタカシと名乗ったはずだから、

その当て字には武ではなく、

貴や隆・敬などを選ぶ以外なかったのである。

このように五王の名乗りのたった一字までもが、

彼等の出身地が南九州だったことを、

その「高市=武」によって充分に、

かつ完全に記録し証明し続けているのだということも、

また本学の真価の高さを教えてくれる。

それなのに、

こんなに重要な名乗りを何の研究も考慮もせずに、

ただ単純に「サン・チン・セイ・コウ・ブ」としか読めずにいて、

その発音を使って平気で議論し、

論文を発表している「学者」たちが、

我が国建国史の真実を発見したり復元したりできるわけがない。

この武の先代、

倭王・興が『三国史記』百済本紀の蓋盧(コウロ)(コウ国(ラ))王で、

世界最大の墓・巨大古墳群の建造者だということは、

すでに拙著や本講で許しくお話しした通りだが、

それらには仁徳天皇陵という堺市の大仙陵や

羽曳(ハビキ)野市の応神天皇・誉由陵があり、

この2大前方後円墳を結ぶ直線を東に延長すると、

雄略天皇陵を経て崇神天皇陵に達し、

さらに東へ延長すると

伊勢湾岸の、伊勢神宮が最初に建てられた場所・元伊勢に到る。

その神殿はその後、湾の水位が上がって水没したため、

現在地に連座したという記録が残っている。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月10日土曜日

興の所領の変遷と武による読み替え地名「高市(タケシ)」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:10頁

だから従来『出雲神話』と呼ばれてきたものは、

これに卑弥呼政権崩壊と大化の倭国政権消滅時のものに、

ギリシャ神話までが混じり合っているが、

その最も中核になっているのは、

やはりこの倭王・済の時の国譲りだということになる。

また一見、自然な混乱にみえる

『記・紀』の『国譲り神話』も、

5世紀と7世紀という時代の近さからみて、

真相を隠すために、

わざと混ぜ合わせて作った

『政略用の作品』だという結論は動かない。

こう見えてくると次の興の名乗りはさらに多くを物語る。

その名は単に河内だけでなく四国の高知も指している。

また大阪市の高津は沖縄発音でタカチとも読める。

これは高族居住地も意味しているから、

3千年前に沖縄に移住してきた

カリエン人の子孫たちの居住地だったことがわかる。

興は中央政権が四国~淡路島にあった当時、

皇子の所領として高知を与えられていたのでコウを名乗り、

済の死後、

領土に加えた土地に河内(コウチ)・高市(コウチ)と命名したが、

発音はいずれもコウチだった。

その高市を武が相続した後、

興当時のままではまぎらわしいと、

文字は高市のままで、発音だけをタケシに変えた。

このタカをタケと発音するのは南九州発音だから、

五代を経過しても、

彼等はやはり南九州語を話していたことがわかるのである。

しかし5代にわたって拡大した国土のどこにも、

ヤマトという国名は全く見(み)当たらない。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月9日金曜日

先住民・出雲人は卑弥呼系。勝った済は壹與系

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:9頁


なぜか?

…それは倭の五王が取ったこれらの地域が、

彼等以前に、

すでに別系の南九州人によって

占拠されていたという動かぬ証拠になるからである。

なぜなら「イズミ」と発音する地名は、

ポセイドンから生まれた名詞

「百済出水(ホセイズン)」の後半部であり、

鹿児島県西部の出水地方からの移住者がつけた地名だとするしかない。

そしてそこにある4世紀古墳から副葬された景初三年鏡が見つかっている。

倭王・済(スミ)に先行して和泉地方を領有していたのは、

間違いなく出水地方を故郷とする倭人たちだったのである。

こう見えてくると、

この和泉地方の王が政権を譲って落ちて行った先がどこだったかも、

明確に見えてくる。

それは出雲以外にはありえない。

本講で先にお話したように、

イドン→イヅン=出水→イヅミ=和泉→イヅン=出雲と、

その当て字を比較してみると、

出雲が一番、元のイヅンに近い当て字である。

ということは、出雲に移った人たちは、

ポセイドン信仰に最も近い古い信仰の持ち主たち=卑弥呼に近い人たちだが、

倭済はオオスミとも読めるから、

出雲へ去った出水系の人たちとは別系の、

大隅系の王、

すなわち壹與政権の王だったので、

和泉は大隅系のイヅミであることを示す意味で、

宋帝への信書にわざわざ

「倭済」のサインをしたためたのだとみても、

以上の考証による断定結果と少しも食い違わない。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月8日木曜日

名乗りの発音差は先住民語のせい

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:8頁

この音読と訓読の違いはどういうことなのか?。

過去にもこの王たちは親子関係が単純でなく不鮮明だとして、

分割する案が出ていることはご存じの通りである。

たしかに『宋書』の記事は、

それを疑わせるような書き方になっている。

いまこの発音差を重ね合わせると、

いかにもそれが真実だったように思えてくる。

この発音差は天皇たちの国籍が変わったせいなのか?

…それ程ではなくても、

別系の王が交互に即位した痕跡なのだろうか?。

しかし発音は人種とは無関係に、その地域に土着する。

親の国籍や発音がどうであろうと、

次の世代になれば、その地域の言葉をそっくりそのままに話す。

五王各人固有のこの名乗りが領土拡大に伴なう新領地名であることは、

すでに確認済みだから、

彼等はその名乗りの地域の住民からみれば「よそ者」であり、

新来者にすぎないから。

いかに武力に勝っていても、数ではとうていかなわないので、

多数が使っている言葉のほうを使うことになる。

だとすれば倭済が獲得した地方をイズミと呼ぶから、

済はセイでなくスミへの当て字として使い、

武も占領した地域・高市をタケシと発音していたから、

武はブではなくタケシへの当て字として使ったのであって、

天皇たちの国籍や系統が変化したのではないと裁定できる。

するとこの間題はここから、

重大な局面に突入することになる。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月7日水曜日

和漢に2分している五王の名の発音

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:7頁

これまで折りに触れて、あらましはお話ししてきたが、

なお一層詳細な証拠群が望まれるこの

『国生み』の、より具体的な証拠と史料群を、

倭の五王史から順を追ってご覧にいれ、

たとえば淡路島の伊弉諾尊は、

卑弥呼政権の後か?

壹與政権の後か?

といった未到の部分の史実が、

どこまで確実、詳細に把握できるか、

という実例を次の主題に選んでみよう。

五王の名乗りについて、

これまでまだ扱わなかった問題の一つに、

名乗りの発音が2種類に分かれているという事実がある。

讃はサンと発音すれば讃岐の讃に合い、

阿波と合わせるとオオサザキと訓(よ)めて

仁徳天皇のオオサザキに一致する。

珍はチンと発音すれば沖縄(ウチナ)のチナから

大阪湾の茅沼(チヌ)の海に合い、

ウは沖縄~大隅語の大でオオサザキのオオと同じものだから、

珍は讃と全く同じ様式の名で、サン、チンともに漢音である。

ところが次の済になると『宋書』が書く

「倭済」はピッタリ和泉(いずみ)・泉州のイズミに合うから済はセイではなく

「スミ」への当て字だったことが確認できる。

この発音は漢音ではなく和訓で、讃・珍とは異なっている。

それなのに次の興は

高知・高(コウ)津・河内(コウチ)に共通するコウであって、

また漢音に戻り、それに続く武の正しい読み方はブではなく、

武市(タケチ)・高石(タケシ)・高市(タケシ)に共通するタケシに合い、

これはまた和訓に戻るので明かに音訓2種類に分かれている。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月6日火曜日

水戸黄門が創建した伊弉諾(イザナギ)神宮

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:6頁

その神宮は、今、津名郡一宮町にあるが、

この町名も戦後のものである。

黄門は私たちのように伊弉諾の尊と国生みを

史実として捉えたわけではなかったのである。

黄門当時の日本人が、

ただ利潤の追及と幼児的な興味を追うだけの低級な国民から、

もっと日本の歴史を知り、先祖の功業を意識して、

より高い教養によって国の文化を高めるような高級な国民にしたいと、

神戸の湊川に楠正成を祭る湊川神社を建てたのと同じく、

「神話としての国生み」の舞台になっている淡路島に、

伊弉諾の尊を祀る神社が無いことを慨嘆して、

この神宮を創建したのである。

目的は国民の教養を高め、

国民精神を高揚させることにあって、

史実を追及したり復元しようとしたのではない。

だからその位置も淡路島ならどこでもよかったのである。

しかし私たちは今や光圀の域をはるかに超えて、

史実としての伊弉諾尊を復元できるまでに至った。

それによって黄門が考えも及ばなかった高い教養と自信が、

日本人のものになろうとしているのである。

今では伊弊諾尊は子供だましの作り話とさ
れてきた

『神話の主人公』ではなく、

『真の大和朝廷の生みの親』として、

真実の日本誕生の消長に昇りつめた。

人工的な1建造物にすぎない神社とは

比較にならない壮大な真実の歴史が、

今、私たちによって復元されつつあることを、

国民はもちろん、

尊や黄門の霊も心から喜んでいると思う。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月5日月曜日

小地名でも古墳壁画を超える貴い価値をも

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:5頁

父がその荒れ地に日本最初の既製服量産(レディメード)工場を建て、

大阪市の要請を受けて川に私費で橋を架けたのが

『緑橋(みどりばし)』だったが、

その「緑橋」は今、なんと!

オフィスや人家が密集する大都心の名に変貌している。

その間には
太平洋戦争による戦禍もあったのに、

私の記憶の中だけでも、

こんなに変転するのである。

史上有名な平城京跡でも、奈良市街になったわけではない。

周知のように農地や荒れ地として横たわっていた。

だから古代の首都を現在の主要地名に結びつけようとするのは誤りである。

今は小字(こあざ)ていどの地名になっていても、

軽視したり無関係視したりするのはいけない。


現状は古代を継承していないはうが多いからである。

だからこそ消滅寸前の小地名でも、

古墳の希少壁画を超える非常に負い価値があるのである。

「古代の首都は現在も少なくとも都市でなければ証拠にならない」と

言った本学への反撃者もいたが、

あなたにはそれが幼稚な暴論だと、

よくおわかり戴けると思う。

淡路島の伊弉諾神宮も以上のような「時代違い」の例に入る。

この神宮も古代からの遺跡ではなく、

やはり江戸時代に、水戸光圀が創建したものである。

地名は単なる無形の発音に過ぎないと思われ勝ちだが、

実際には大地、距離、方位など有形のもの=遺跡で構成されている。

水戸黄門は何を根拠に、

何を考えて、そんな神宮を建てたのだろうか?。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月4日日曜日

ウワジマ命名の背景と古代都市の存続度

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:4頁

この宇和島命名問題は30年ほど前にも指摘されて再検討したもので、

その結論を手短(てみじ)かに要約すると、宇和島は確かにイタジマだったが、

江戸時代以前の複数の文献に愛媛西岸に「ウワの海」の名と、

ウワのつく地名が記録されている。

またイタの名そのものが一大であり、伊都であって、後にお話しする八幡その他、

倭国と切り離せない地名が複合して愛媛地域に密集している。

命名者・伊達氏そのものも仏教の守護神

「伊達天(イダテン)」を名乗る仏教倭国の後裔で、

前領地名ウワも、間違いなく「大倭(ウワ)」を意味していたことなども、

江戸時代には文献などの表面には出ないが、

本学の常識から推して容易に判定のつく問題だった。

むしろここで注意が必要なのは、

現在の都市・宇和島の位置に

古代の首都・大倭之国があったとするのが正しいかという点である。

なぜなら古代の首都や大都市は短命で、永続していないからなのだ。

シュメル、エジプト、インド周辺、ギリシャ、東南アジア、中国、中南米の

どの古代文明をとってみても、

その大遺跡は砂漠やジャングルや荒れ地や高山の頂上などに、

無人の廃墟としてしか残っていない。

私の小さな体験を振り返ってみても、

小学校に入学した東京市郊外は農村そのものだったし、

その後、生活した大阪市の、大阪城の東の地域も、

東は生駒山の麓まで一望できる、

田畑と荒れ地以外なにもない農村地帯だった。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月3日土曜日

宇和島は果たして大倭之国だったか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:3頁

淡路島を拠点とした『国生み』とは、

倭の五王の最後の王・武による今の奈良県高市地方侵入による、

のちの大和朝廷(天武天皇以後)の創設という視点から見たもので、

「地方政権時代から脱皮して、中央政権としての地盤を確立し、

朝廷による統一国家を生み出した」

という意味の国生みだったことを、

前講までで一応ご納得いただけたと信じている。

では、この建国のあらすじは、

信頼できる証拠や証明をどれくらいもっているか?。

それをどう見つけ、どう理解し、どう説明して、

それが史実の残した貴重な文化財であり、

国宝であることを、どう立証すればいいのか?。

その実例をこれからご覧戴くことにしよう。

東京都の塩崎恵一正会員は

史実の実地調査を入念に実行されてきた碩学で、

従来もいろいろご教示を戴いてきたが、最近のご指摘をあげると、

これまで本講で、

愛媛の宇和島は発音が大倭之国(ウワシマ)に一致するから、

四国倭国の都の名残で、

倭の五王の重要拠点の遺跡だとお話ししてきたが、

氏はその宇和島は江戸時代の伊達氏転封以前はイタジマという名で、

伊達氏前領地首府の「ウワ」という地名を移してウワジマに改めたもので、

古代地名ではないというご指摘を戴いた。

言語復原史学を否定する説には、このご指摘に類するものが多く、

粗雑に大まかな座標として利用していた愚に気づき、

貴重なご指摘に深く感謝申し上げている。


『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月2日金曜日

いま初めて解った『国生み』の真意

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:12頁

もとは上下2つの立神岩があったが、下立神岩は崩落して今はない。

上立神岩だけが沼島中央部の東海岸の海中に、

今も古代の姿をとどめて、大阪湾を背に立っている。

その真東の対岸は和歌山県日南市「日方(ひがた)」である。

この地名の対照からみて上立神岩は、

伊勢の二見(ふたみ)が浦の夫婦(めおと)岩と同じ性格の、

太陽を崇拝するシンボルだったことがわかる。

すると上下ー対(つい)の立神岩も本来は夫婦(めおと)岩だったのであり、

それが伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の2神を表現する象徴であり、

だからこそ夫婦の道を説き、

女性上位では国土獲得は難しく国家の経営と永続は

期待できないという統治哲学などを教えつつ、

国土や3貴子を生む物語りの母胎になったことが、容易に推理できる。

そればかりでなく、

これまで不明だった、二見(ふたみ)が浦の夫婦岩の真意も、

皇大神宮の本来の信仰の性格もわかり、

淡路島から伊勢までの天皇家の血統に至るまで、

その真相と繋がりがみえてくる。

また仁徳天皇陵から伊勢に至る遺跡の直列とも

淡路島が深く関わっていることも見えてくる。

「写真」上神立岩

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像

2010年4月1日木曜日

今も実在する『帝の(ミカドの)柱』インギーラ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:11頁

しかし幾ら発音がうまく合っても、

意味が通じなければ、なんにもならない。

一体?このパリー語の意味はどんなものなのだろう?。

これには『帝柱』という訳がついている

日本語でいえば「ミカドの柱=天皇の柱」であり、

その意味は「国の御柱」といったところだ。             

こうみてくると『記・紀』の『国生み』の最重要モチーフは、

男女2神が「国の御(み)柱」を回ることにある。

どこからみても「磤馭盧(インギーラ)」とは、

この『帝柱』だったのであり、

それが理解できない人々が、

ただその発音に当て字しただけのものだったのである。

それをムリヤリ『古事記』の筆者が「オノゴロ」とコジつけ、

それだけでは不足なので「島」を追加した。

そのためそれが一見、

真実らしく見えたために真相が現在まで闇に葬られてきたのだ。

だがそれなら、どこかにその『帝柱』がなければならない。

わざわざ原語で記録されたのだから、

当時は隠れもない現実の事件として、

天皇と皇后がその帝柱めぐりに相当する行為を行ない、

それが国を生むという歴史的大事件の象徴として、

重大な意味をもっていたのである。

少なくとも伝承誕生当時には、

それがどこかに実在していなくてはならない。

そしてそれは今も実在している。

古来、オノゴロ島てはないかといわれそきた沼島(ヌシマ)に、

それは今も天に向かって聳えている。

立神岩と呼ばれているのがそれなのである。

『参考』

翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊  
ウワイト
古代史の画像