『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:13頁
だから卑弥呼の死の直後には大冢が造られたが、
それは次の男王の手によるもので、
まだ卑弥呼系倭国政権時代である。
しかし女王でないといけないという宗教反乱にあって
王位を追われたあとへ位宮が乗り込み、
壹與を女王にいただく新政権を樹立した。
この時、初めて邪馬(ジャマ)壹国が生まれたから、
伊都国に滞在していた帯方郡使張政が、
彼より先に九州へ来て伊都国で卑弥呼に会った
帯方郡使・梯儁(テイシュン)が調査して、
報告した帯方郡からの行程衷に、
新たな情報として、
伊都国以南の国々、
投馬国・邪馬壹国・奴(ノ)国(福岡県)・不弥国の4か国を書き加えた。
この国々は梯儁の知らなかった国々で、
いずれも卑弥呼の死後に、
新しく生まれたり、移動したり。
重要な意味をもち始めたために、
政治の表面に登場してきた国々である。
もちろん卑弥呼は、
それらの邪馬壹国も福岡の奴国も不弥国も知らずに死んだ。
『日本書紀』は垂仁天皇、すなわち位宮が、
男王を葬った古墳に殉葬された隼人=パーリ人たちが、
死ぬまで泣き叫び続けるのを見て、
野蛮な悪習だから今後は殉葬をやめて、埴輪で代用せよと、
野見宿祢の提案を採用して命令したと書いている。
その記事の通り、埴輪のある古墳が確かに実在する。
位宮は古墳を禁止したわけではないから、その後も古墳は造られ続けたが、
これで埴輪のある古墳は邪馬壹国系の壹與政権側のものだと確認できる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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