『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:14頁
だが垂仁天皇の命令に従ったのは邪馬壹国民だけだから、
倭国政権側の人々は、その後も殉葬を続けた。
それは例の景初三年鏡の出た古墳に明瞭に見られる。
そこにはその鏡をもった女性の柩を中心に、
それを守護する形で左右に男性が葬られていた。
だからこれは明かに位宮の禁止とは無関係な古墳で、
壹與政権系の人物の墓ではないし、
しかも女王の墓としか考えられない遺体配置になっている。
卑弥呼政権側の古墳であることは疑いない。
このこともまた、
倭(ウワイ)国政権は、首都・巴利国=隼人町での戦いで
位宮と壹與軍に敗れ、
首都を奪われはしたが消滅したのではなく、
東の宮崎県側へ大移動したことを示している。
そのコースは宮崎県の西都原(サイトバル)に
大量の古墳群を残したあと大分県へ進む。
この間(かん)の戦闘は、
卑弥呼側の闘将・景行天皇・大足彦忍代別(載斯烏越(タイシオジゥオ))の事跡として
『記・紀』に書かれており、
東に海を越えること千里の愛媛県に、
卑弥呼の語源・ぺマカ(パーリ語の「愛」)への当て字
『愛(え)』媛(ひめ)の国名を残したが、
それは後に壹與を意味する伊豫(壹與(イヨ))に変えられた。
まず卑弥呼政権の国になり、
後に壹與政権の国になっているから、
壹與政権は同じコースを進んでいる。
ここでウワが再び重大な問題になる。
壹與の国なら『邪馬壹国』という堂々たる国名がある。
卑弥呼政権の使った倭国=ウワイなど使う必要はないからである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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