2010年4月14日水曜日

壹與政権に先行して東へ移動した卑弥呼系政権

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:14頁

だが垂仁天皇の命令に従ったのは邪馬壹国民だけだから、

倭国政権側の人々は、その後も殉葬を続けた。

それは例の景初三年鏡の出た古墳に明瞭に見られる。

そこにはその鏡をもった女性の柩を中心に、

それを守護する形で左右に男性が葬られていた。

だからこれは明かに位宮の禁止とは無関係な古墳で、

壹與政権系の人物の墓ではないし、

しかも女王の墓としか考えられない遺体配置になっている。

卑弥呼政権側の古墳であることは疑いない。

このこともまた、

倭(ウワイ)国政権は、首都・巴利国=隼人町での戦いで

位宮と壹與軍に敗れ、

首都を奪われはしたが消滅したのではなく、

東の宮崎県側へ大移動したことを示している。

そのコースは宮崎県の西都原(サイトバル)に

大量の古墳群を残したあと大分県へ進む。

この間(かん)の戦闘は、

卑弥呼側の闘将・景行天皇・大足彦忍代別(載斯烏越(タイシオジゥオ))の事跡として

『記・紀』に書かれており、

東に海を越えること千里の愛媛県に、

卑弥呼の語源・ぺマカ(パーリ語の「愛」)への当て字

『愛(え)』媛(ひめ)の国名を残したが、

それは後に壹與を意味する伊豫(壹與(イヨ))に変えられた。

まず卑弥呼政権の国になり、

後に壹與政権の国になっているから、

壹與政権は同じコースを進んでいる。

ここでウワが再び重大な問題になる。

壹與の国なら『邪馬壹国』という堂々たる国名がある。

卑弥呼政権の使った倭国=ウワイなど使う必要はないからである。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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