『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:25頁
ではその本国はどこにあったか?。
それが隼人から宇佐に移り、
伊予に移ったことは充分にわかったが、
伊予から直ちに近畿に移ったのであろうか?。
興は大古墳という巨大な建造物を造ったが、
それは伊予から指図してできる事業ではない。
確実に近畿こ都を移している。
それを使って考証してみよう。
仁徳陵→応神陵→雄略陵→崇神陵→伊勢皇大神宮の元伊勢。
これを逆に辿って西に延ばすと、
仁徳陵から大阪湾に出て淡路島の北部にぶつかる。
なぜ、中央部ではないのだろうか?。
それには凄い理由があるのである。
仁徳陵から元伊勢までの直線は、
真方位で正確に北緯34度と35度の真ん中、
34.5度線上に正しく引かれている。
そして淡路島北端部は東経135度の子午線上にある。
その岬の北の対岸・明石市が、
その子午線上にあることは有名だが、
淡路島北端部は仁徳陵から元伊勢に至る
北緯34.5度線とそれとが交錯する
ただ一か所の地点だったのである。
しかも古墳間の距離は、
現行のメートル法に合う尺度で、
キッカリ「11の倍数」kmに測定して配置されている。
世界最大の巨大古墳は大きさだけでなく
今の考古学者の水準を超えた
凄い天文学と方位学と測量学の総合科学によって配置されていた。
我が古墳時代の天皇たちは、
当時の中国人やヨーロッパ人たちより、
はるかに高い文化水準にあったことが見事に立証されているのだ。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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