『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:26頁
これで興が巨大古墳造営に当って、
淡路島北端を起点に選んだ理由がご理解戴けたと思う。
先にお話しした通り興の父・済がイザナギの名乗りをもち、
最初に天降ったのが南端の沼島であり、
そこに帝柱・インギーラを造り、
真東の和歌山県海南市日方を選んで近畿攻略戦に乗り出したのだが、
これにも言語上の証拠がある。
日方がそれである。
大隅語と江戸っ子弁がとをシと発音するから
大隅人の済は日をシと発音した。
また古語では四方と書いてヨモと読むから、
日方はシモ、シモは下(しも)でもある。
済はそこへ下(くだ)ったのだから上はどこなのか?。
それが神(カミ)と書かれた立神で、
「発(た)つ上(カミ)」という意味なのである。
すると済たちが紀州のどこへ上陸したのかもはっきりわかる。
海南市に隣接した下津(しもづ)港だ。
これで沼島がなぜ最初で、
なぜ磤馭盧(インギーラ)島なのかよくわかった。
それは「白熱に凝り固まった」というような意味では全然なく、
天皇が造った建国記念碑=帝の柱(インギーラ)だったことが、
さらによくご納得戴けたと思う。
だが、すると先に紀(キ)伊の国は沖縄語のチヌだから、
紀州と茅沼を取ったのは倭王・珍だといっだのは間違っていたのだろうか?。
これは珍と済、父子二人が共に戦ったが、
珍が途中で死に、
済が完成したので済の事跡としてイザナギの国生みとされたが。
済は征服完成後、今は亡き父に紀州と茅沼を捧げたから、
2国にその名がついたとすると納得できる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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