『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:23頁
もちろん、この2国だけで戦ったわけではない。
位宮はその前に高句麗からシンドゥの神・ビチュヌウを名乗る海人族の王・
ミチノウシ(道大人)に連れられて、種子島(竜宮)へ逃げ帰った時、
結婚した狭穂姫(豊玉姫・乙姫の義姉)の婿になって、
そのシンドゥ教徒を主力にしたことは、
邪馬壹国建国と同時に種子島の奴国(野間)が旧伊都国を解体改名して
新・奴国にしたことで充分にわかる。
その新・奴国が後に野間人(ヤマト)と呼ばれるようになり山門郡になった。
同じ山門は薩摩にもある。
読み替えは広域のものだったのだ。
その野間出身の八幡(はちまん)もまたヤマンと読めるから
「ヤマの=山の(王)」への当て字だ。
その山門が同じ福岡県内なのに筑前に変わると
ヤバタ(八幡)になっているが、
こちらのほうは八幡徒(ヤマト)が語源だとよくわかる。
次が宇佐の八幡で、武のいうとおり東55か国へ向かって海を渡ると
愛妓県・伊予のヤワタハマ(八幡浜)かある。
これは八幡徒の(都の)港を意味するから、
その背後にある大洲(オオズ)が都でなければならない。
大(だい)は俀、洲は国のことだからここが俀国だった。
その真南20kmに「宇和」があり、
その西の岬が大崎でウサキ=宇佐王、
ダイとオオの岬という名になっている。
この大崎と佐田岬とに囲われた大湾が
「宇和海」で、宇和島湾は大崎以南の湾をいう。
塩崎正会員のご指摘のお陰で、
これで書き落とした部分が精密に補足できた。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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