ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年11月30日金曜日
沖縄から本土に入ったフェニキヤ人
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:27頁
《沖縄から本土に入ったフェニキヤ人》
「沖縄から本土に入ったフェニキヤ人」
もうこれで、
フェニキヤは「船木屋」だと申し上げても、
コジつけとも、
論理の飛躍だともお思いにはならないと思う。
それはまさしく日本語になっているのである。
考えればそれは三千年以上前に日本語化したのだから、
当然のことなのだが、
それが今の標準語と少し、ずれがあるために疑われるのである。
このことは逆に日本語の歴史を考える上では貴重な文化財だということになる。
それを追及してみよう。
フネの部分はフェニだから、エ音が消えている。
このことは我が国の言語分布からみて、
e音の無い沖縄語のためだと解る。
それにはもう一つ根拠がある。
エ音が取れるとフニになるが、
沖縄では現在も船をフニと発音している。
さらにもう一つ沖縄へ先に入ったという理由がある。
それは船乗りのことを
古い沖縄語では
「フ ニ チュ」という。
これは原語を並べてみると、明瞭に語源が浮かび上がる。
「フェニ キヤ」
沖縄語のチは標準語のキであり、
yuはyaと書くと一層よく相互関係が理解できる。
フェニキヤの名が、
三千数百年という歳月を経ても、
一字一音も欠けることなく、
こんなに見事に保存されていたのである。
だからこれもフェニキヤ人が間違いなく沖縄に入り、
以後に本土に入ったという貴重な証拠の文化財なのである。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
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《参考》
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存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
2012年11月29日木曜日
「万世一系」が真実である原理
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:26頁
《「万世一系」が真実である原理》
「「万世一系」が真実である原理」
もう一度、繰り返すが、
「この狭い列島で、支配者問で争い、和睦して、婚姻を結んだ。
だから双方とも皇祖であることは間違いない」というのは、
このスサノオの歴史だけではない。
これと同様のことは八千年の歴史の問には、
数えきれないはど繰り返されたことは想像に難くない。
継体天皇が応神五世孫を主張したのは、
国民の大半が、
どこかで皇室と血がつながっている事実があったからで、
継体は単に血の濃さを宣伝して、
反抗者を減らそうとしただけに過ぎない。
血の濃ささえ無視すれば、
全国民がウバイド女帝の血を承け継いでいるのだから、
これが万世一系思想が真実である原理なのである。
私たちは本講によって、
今や神武紀元どころか、紀元八千年の女帝国の直系にまで「昇格」した。
日本全国どころか全世界に、「弟」がいるのである。
その血を分けた朝鮮半島や中国の人たちを他人と誤信し侵略した連中が、
どれほど低劣な輩だったか、
今更いうまでもないが、
ウバイド起源の史実の発見は、
そんな低劣な思想を吹き飛ばしてしまった。
私たちの祖先の霊はいま初めて心安らかに、
真の理想的グローバル世界を思い描いていることと想う。
また本学会をここまで導いて戴いた学会員の皆様も、
さぞご満足の御ことと拝察、
この成果を一人でも多くの方々にご教示戴くことを、
御生き甲斐にとお祈り申し上げている。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
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2012年11月28日水曜日
崇神は須神(スサノオ)、杉は須木
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:25頁
《崇神は須神(スサノオ)、杉は須木》
「崇神は須神(スサノオ)、杉は須木」
ウバイドの天照大神の後継者の、正確な遷都時期は判らないが、
それより後世にやって来たことの確かなスサノオは「弟」なのである。
そして両者がこの狭い列島で争い、和睦して、婚姻を結んだから、
共に天皇家の皇祖であることは間違いない。
ついでにお話を追加すると、
『崇神天皇紀』にあるように、
当時の大神と崇神天皇とが意見が一致せず、
姉の大神を「岩戸」に幽閉した史実も、
この超古代の大神と須神との話に
一纏めにされていることにお気付き頂きたい。
この事実はすでに淡海の三船が熟知していた。
彼は御間城入彦天皇に「崇神」と贈り名したのである。
この「スジン」は、
「須神=スサノオ」を暗示しているのである。
また「スギ」もやはり「須木」なのだ。
こんなに複雑な複合物を、在来の神話学者のように、
海外の幼稚な村人のお伽話が伝来したものだと思い込んでいたのでは、
とても『記・紀』は理解できない。
天照とスサノオの姉弟の物語は、
こうした複数の歴史が様々に複合していることの縮図なのである。
これでは在来の『記・紀』解説は全く役に立たない。
その解説を今では世界で唯一、
真実の歴史をご存じの言語復原史学会員諸氏の、
御生涯のお仕事にして戴きたい。
これが、
私(加治木義博)がこれまで大学院講義で、
ご講義申し上げてきた真意であり、心からの切望なのである。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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『言語復原史学会:画像』
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2012年11月27日火曜日
大神と須神の話は多数の史実の混合寓話
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:24頁
《大神と須神の話は多数の史実の混合寓話》
「大神と須神の話は多数の史実の混合寓話」
では天皇家はフェニキヤ人の子孫なのであろうか?。
スサノオは天照大神の弟である。
この2神は皇祖だとされているから、
スサノオの子孫であることは疑いない。
しかし天皇家の系譜の父子兄弟姉妹は、
後世の系譜とは大層異なったものなのである。
なぜなら欠史天皇たちの系譜や卑弥呼と神功皇后の扱いで明らかなように、
実際の血縁とは随分違った系譜になっているからである。
なぜ?そんなことになっているかというと、
当時の記録は紙ではなく木簡に書かれているものを、
順番に縄で編んで保存してある物だから、
即位の順序が早いものが先の天皇として記入されている場合、
たとえ兄や父であっても、
後から即位すれば子や弟に見える時間帯の部分に、
追加して繋いで行くしかない。
また神話と呼ばれてきたもののように、
本当の伝承が余りにも古かったり、
語り部の記憶だけの場合は、
省略部分や消失部分や記憶喪失部分が大量にあって、
残った部分を名前を頼りに寄せ集めて、
適当に纏めたものも当然ある。
また倫理教育上悪い史実は、教訓のほうが重視されて、寓話化されてもいる。
確かに史実が編集されてはいるが、
名乗りは同じでも、様々な時間帯の複数の史実が、
一人の事跡に見えることになる。
これらを考慮して
天照大神とスサノオをみると、
女性絶対上位の大神は、
絶対にフェニキヤ人ではない。
それは時代の古いウバイドの女帝そのものだから
「姉」とされたのである。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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2012年11月26日月曜日
スサの王を日本列島へ移住させた大動乱
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:22頁
《スサの王を日本列島へ移住させた大動乱》
「スサの王を日本列島へ移住させた大動乱」
しかし今から三千何百年か前、
フェニキヤ人スサノオは何故?交易でなく、
木の種子をもって我が国へやってきたのだろう?。
答は彼の教えにある。
彼は「我が子孫は船をもたなくてはいけない」と教え、
我が国にだけ植物を移植したのだから、
彼は日本列島を基地にして、海運や交易事業を継続し、
子々孫々まで永住するために来たのである。
それは当時シリアなどに都市国家群をもち、
繁栄の極にあったフェニキヤ人が、
なぜか選りに選って、
世界の東端の、絶海の孤島といいたい程の
この日本列島に住もうとやってきたということである。
そして韓国には種子を蒔かず我が国にだけ蒔いたというのだから、
これは熟考した上での決定的行動である。
一体、何がそうさせたのであろうか?。
今から3200年前のB.C.E.1200年、
エジプト第20王朝のラムセスⅢ世が、
そのシリアを征服し、
他の植民地から救援に駆けつけたフェニキヤ人たちも次々に撃破された。
全く同時にギリシャのトロイヤ侵略も進んだ。
フェニキヤ人の楽園が大動乱のうちに奪われて行ったのである。
それはもちろん遠く離れたスサにも伝わった。
やがてはスサも同じ惨劇に見舞われると予測したスサの王は、
遠隔の安全地帯にあって、
好条件の揃った希にみる楽士だと知っていた日本列島への移住を、
熟慮の末、実行に移したのである。
「フェニキヤとスサとウバイドの位置」
《フェニキヤとスサとウバイドの位置》
「フェニキヤとスサとウバイドの位置」
《エジプト第20王朝のラムセスⅢ世》
「エジプト第20王朝のラムセスⅢ世」
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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2012年11月25日日曜日
移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:20~21頁
《移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉》
「移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉」
今では世界唯一の、3000年を超える屋久杉は、
『日本書紀』のスサノオ植樹の話が実話で、
3000年以上前にスサから来た王が植えたものだったことを疑わせない。
在来、疑わしい神話の、疑わしい架空の「神」とされて来たスサノオが、
実際には実在していて、
その伝承通りの植樹をし、その木が今も生きているからである。
ところが垂仁天皇も、
皇子のホムツワケも、
他のスサノオ伝承に一致する点がある。
彼等は3世紀の実在者と確認できているから、
スサノオは一人ではなく、
「スサの王」という名乗りだったと確定できる。
それを一柱の神と錯覚し、似た話の分布を理由に、
それは物語が運ばれてきたのだと史実を抹殺し続けてきた「神話学」は、
根底から再検討されなければならないが、
それにも増して重要なことは、
スサノオ植樹が史実だという確認は、
屋久杉が外来植物だという確認であり、
原産地はどこかが問題になる。
屋久島人は3000年以上前にそれを運べないから、
運搬者はフェニキヤ人だと特定できる。
とすれば屋久杉はレバノン原産の杉だと確定している。
それがどこに移植されようと杉の原産地は他にはない。
だから屋久はレバノン杉そのものだったのである。
『聖書』の「レバノン杉」は絶滅などせずに、
今でも屋久島で見られるのである。
「樹齢3000余年の屋久島の縄文杉」
《樹齢3000余年の屋久島の縄文杉》
「樹齢3000余年の屋久島の縄文杉」
縄文杉:ウイルソン株の推定樹齢は三千余年。
根回り32m、直径13m。
縄文杉:ウイルソン株
縄文杉:ウイルソン株
『『聖書』の「レバノン杉」』
※参考文献:遠藤富太郎 「スギのきた道」 中央公論社
スギのきた道
言語学的推察には大変興味が有りますが、
※津村教授の見解もご参考にして頂ければと思い追記してみました。
森林綜合研究所(つくば市)・津村教授によれば
レバノンスギは同じ針葉樹と言う意味では仲間になりますが、
マツ科ヒマラヤスギ属の樹種でスギのルーツではありません。
ヤクスギのルーツというのは第三紀頃(約200万年前)に
スギの祖先的な種が出現したと考えられています。
日本でもこれくらい古い時代でも出現の記録がありますので、
それが日本のスギ(屋久杉を含む)のルーツでしょう。
※今後調査が必要なのは「レバノン杉と屋久杉のDNA比較調査」です。
《レバノン杉と屋久杉のDNA比較調査》
「レバノン杉と屋久杉のDNA比較調査」
《パーリ語辞典》
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2012年11月24日土曜日
スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:19頁
《スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実》
「スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実」
言語以外の証拠はまだある。
それはスサノオ父子の「樹種(こだね)」の子孫である。
『日本書紀』にある一書には
「五十猛命が天降った時、多くの樹種をもって下ったが、
韓地には植えず、ことごとく持ち帰り、
筑紫から大八洲中に播かない所はなく青山にした」とあり、
その次の一書に、
前記のスサノオの「浮宝」の話が載っていて、
杉と楠は船に…、
檜は家屋に…、
槙(まき)は死者を葬る棺材にせよ。と命が言う。
この杉と楠と檜と槇は今も我が国に現存しているが、
全て列島古来の野生種ではなく、
外部から持ち込まれた輸入品を栽培し続けていることが判っている。
『日本書紀』のこの記事が真実だという生きた物証なのである。
それが非常に古い時代の史実だという物証もまた、大量に残っている。
それは鹿児島県の屋久島に聳える古代杉の一群だ。
宮の浦岳登山道の高塚山付近にある縄文杉は、
その樹齢3000年を超えると測定された古木で、
ここ以外にそんな樹齢の杉はない。
1000年以下の杉は「小杉」と呼ばれて、
それ以上の木が屋久杉と呼ばれるほど老木が多いので、
この島の杉がスサノオらが最初に植林した遺跡だということは間違いない。
このスサノオの話は神話ではなく史実だったのである。
その証拠に鹿児島県下には粟野の松尾城址などに、
杉の巨木が天を衝いて聳えているのが現実に見られる。
それはフェニキヤ文明の到来が3000年以上前であったことを、
今も立証し続けている動かぬ証拠である。
『屋久島縄文杉』
『屋久杉』
『杉』
『楠』
『檜』
『槙』
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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2012年11月23日金曜日
「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:18頁
《「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する》
「「紫衣」は、渡来を疑う論拠を消滅する」
こうして挙げて来た高度の共通点=史実の証拠は、
しかし言語だけであり、
それもまた移住先の言葉に抹殺されてしまうから、
その量は当然、激減している。
他には証拠はないのであろうか?。
フェニキヤ人たちが扱っていた商品の中に、
彼等から以外、
絶対に入手できなかった特珠な染料の一種がある。
なぜ?他では手に入らないのか?、
それは地中海岸の属国・ツロ特産だった、
ツロツブリという巻貝の一種が
ごく微量内臓する柴紅色の色素で染めた織物が、
その色彩の良さはもちろん、
その希少牲から宝石のように珍重されて王侯の衣服の必需品になり、
彼等はその採集と製法を極秘にして巨利を得ていたからで、
海の富は貝貨だけではなかったのである。
そんな紫の衣服など、少数の富める国の王侯が、限られた人々にだけしか見せず、
それらの国以外には無いはずなのに、それが我が国には古代から実在して、
「紫衣(しい)」と呼ばれて高貴の式服とされてきた。
それらの紫衣はツロ紫染めだったとは限らないが、
「紫衣」の名に恥じない色合いはもっていたのである。
この事実は、
フェニキヤ人が我が国まで来なければ
絶対にあり得ないことが理解できる知性人には、
これを杏定して彼等の影響を疑う論拠は、
消滅して残らなくなってしまう。
『ツロツブリ・巻貝』
《パーリ語辞典》
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2012年11月22日木曜日
さらに充満していた複数の所属国の歴史
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:17頁
《さらに充満していた複数の所属国の歴史》
「さらに充満していた複数の所属国の歴史」
では彼等の別名・カナンにも何かの関連があるのか?。
彼等はアブラハムの子孫だからウル出身で、ウバイド人であり、
その位置はチグリス、ユーフラテス2大河の南、
漢字で書くとまさに「河南」の人なのである。
これは不思議ではない。
漢字はもともと殷の文字で、もとはウバイド語だったからである。
だからと言って言語の大半が共通語だというのではない。
言葉は土着するから、
移住者は移住先の言葉で話さないと、食物も買えないで滅亡してしまう。
たとえ征服者でも先住民の言葉には勝てない。
自分達が使ってきた言語の大半は子孫には伝わらないのである。
しかしスサといった名乗りは残る。
ノアの大洪水は間違いいなく
2大河のそれだったからスサも水没した地域にある。
スサノオはその名乗りと共に先祖が遭遇した
大洪水の記憶を我が国まで持ってきた。
船は必需品だと言ったのである。
フェニキヤ文明は箱船の知恵を継いだ産物であり、
スサノオは名乗りだけでなく歴史も受け継いだのだ。
そして祖国が武力の前に敗れ続けたことを知っているために、
平和主義の女帝・天照と政策を争って戦闘の男、荒(すさ)の男(お)となり、
八俣の大蛇と戦って勝ち、豊穣のインダ=女帝・稲田姫と結婚して
新王国・出雲(海神ボセ・イヅンの国)を築く。
彼の物語の底流にはこのようにビッシリと、
ウバイド、フェニキヤ、ギリシャ、インダス、殷、中国といった、
所属してきた国々の、歴史と文化が充満していたのである。
《パーリ語辞典》
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2012年11月21日水曜日
スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:16頁
《スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証》
「スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証」
フェニキヤ人は、そのずば抜けた思考力と先進文化によって船を造り、
その新しい移動手段を活用して、さらに新しい交易を考案実行し、
富を築き国土を拡大して栄えた。
その基礎になったのは、船材や香料や建築材としての植物の性質を研究して、
加工し増殖する学術を発展させたことで、それが彼等の文化の著しい特徴である。
『日本書紀』にはスサノオの尊が、
子孫は「浮き宝=船」をもたなくてはいけないといって、
髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、
それが種子になって杉や檜や楠などが生えたという話や、
尊の皇子・五十猛の神と共に、
樹木の種子を大八州に植えてまわったという話が載っている。
『旧約聖書』のエゼキエル書には
「カナン人はレバノン杉で汝の船の帆柱を造り、
セニルの縦で汝の船板を造り、
バシヤンの樫の木で汝の葺を造り、
キティムの檜に象牙を嵌めて汝の甲板を造った」
と書いてあり、
フェニキヤ人以後、こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、
今ではレバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、
フェニキヤ人はまさに文字通りの「船木屋」だったことを証言している。
スサは、そのイラン植民地の大都市であり、
そのスサの王の名乗りをもつスサノオのこの物語は、
当時世界唯一のフェニキヤ文明が
我が国に入って造船や植林産業を起こし、
そのための必須教養として植物学知識が、
説話様式による古代教育に新たに加えられた史実の『証拠』なのである。
『エゼキエル書』
『カナン』
『フェニキヤ』
『フェニキヤ文明』
『レバノン杉』
《パーリ語辞典》
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2012年11月20日火曜日
フェニキヤ人の歴史と来航の可能性
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:15頁
《フェニキヤ人の歴史と来航の可能性》
「フェニキヤ人の歴史と来航の可能性」
では、在来、ギリシャ人とは別けて考える人の多かったフェニキヤ人について、
今少し詳しく確認してみよう。
は『旧約聖書』の箱船で有名なノアの子孫・ハムの一族で、
セムの一族が
ヘブライ人のヤベテの一族がギリシャ人だから、ギリシャ人と祖先は同じである。
B.C.E.20世紀ごろから
シリア地方にシドン・ビプロス・ウガリットなどの都市国家群をたて、
それがフェニキヤと総称されたもので、
人種名としてはカナン人というのが通称だった。
航海と通商の先進国で
東はイランから西はシラキウス、
大西洋やアフリカ沿岸にも植民し、
インドに入り、スリランカにも顕著な遺物を残しているが、
B.C.E.9世紀にアッシリアに併呑され、
その後またアレクサンドロス大王に征服されてギリシャに属し、
B.C.E.63年にはローマ領に編入された。
そのため彼等が使っていた
22個の子音文字がローマ字の原形になったが、
それ以前にもヘブライ、アラム、ギリシャ文字も
また、昔、
このフェニキヤの線文字アルファベットから生まれたことが確認されていて、
武装国家の暴力には屈しても、征服者より優れた偉大な文化人たちだったことが判る。
スリランカは南進仏教の大本山で、
ソナカらを乗せて来たのが彼等だった可能性も強く、
アレクサンドロス軍の一部として、
また単独で我が列島まで来た可能性もある。
『旧約聖書』
『フェニキヤ』
『アレクサンドロス大王』
《パーリ語辞典》
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2012年11月19日月曜日
渡来の事実とその時期の確認
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:14頁
《渡来の事実とその時期の確認》
「渡来の事実とその時期の確認」
だがウバイド、ギリシャ、倭人といっても、もちろん時代が大きく違う。
その時間差も明らかにしないといけないが、
ウバイドについての研究は、
過去の業績で明らかになっていた遺跡の下層に、
さらに8000年前と測定された遺跡の存在が確認され、発掘作業進行中、
ブッシュ大統領父子による湾岸戦争とイラク戦争という二度にわたる惨劇が起こり、
発掘が中断されたままになっているから、
8000年前という概数しか判らないが、
我が国の発祥がいっか?という命題には、これで充分であるし、
カルデア人がカリエンとして
台湾・沖縄に土着し、高句麗・モンゴルまで支配して
貝貨幣を中国へ運び、殷帝国の興隆に貢献した事実も解っているから、
これがウバイド人の1ルートであったことは間違いないので、
時代は特定できている。
次はギリシャ人はいっやってきたか?だが、
これは考えなけれはならない問題に満ちている。
それを一つずっクリアーして行ってみよう。
①アレクサンドロスの東征によるものか?。
②その東征の結果、生まれたマウリア王朝のアソカ王仏教宣布団によるものか?。
③海の先進国フェニキヤ人の来航によるもものなのか?。
この②はソナカが卑弥呼の夫である仲哀天皇なので時代は限定されているし、
①によると考えられる2~3世紀の東夷ユーロは、
大学院講義録34で見たように、
筑紫であることの確かな粛慎を経由しているので、
渡来の事実と時期が確認できている。
《パーリ語辞典》
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2012年11月18日日曜日
想像以上に濃い倭人と殷とギリシャの血縁
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:13頁
《想像以上に濃い倭人と殷とギリシャの血縁》
「想像以上に濃い倭人と殷とギリシャの血縁」
この巫女の神託はギリシャ文明の特徴でもある。
その中でも最も有名なそれはデルポイの神殿に三脚の鼎(かなえ)を据えて、
それに乗った巫女のピューティヤが口走る託宣を、
付き添いの巫女が書き留めるもので、
今でも中国南部から東南アジアにかけて勢力をもつ宗教『天道』などで、
台に乗って催眠状態になった少女巫女が、
専用机に敷いた細砂に杖で文字を書くのを、
介添えの巫女が紙に写しとるシステムと全く同じである。
そして我が国では
『古事紀』の序文に登場する「稗田阿礼」がこれと同じことをするし、
その稗田阿礼という当て字の文字は、
ピューに稗、テーに田、エヤに阿礼(あや)の字を当てて、
その筆者が大隅人だったことまで解るので、完全にビューテイヤに合い、
これもギリシャ文化が古代の我が国に実在した重要証拠郡中の、
決定的な一つに数えられるのである。
またそのピューティヤが神託に際して、
必ず腰かけた「青銅の鼎」は、
殷の国器と呼べるほどの特異な器物である。
それがデルポイ神殿で重要な役割を担っていたという証拠は、
殷とギリシャの血縁や往来が、
実に密接なものだった事実を教えてくれる。
そしてさらにギリシャ人が、我が国に太鼓の言語を残した程、
移住して来て溶け込んだ大きな史実は、
この殷との共通点の濃度を見れば、
予測を遥かに超えた必然的なものだったのである。
『ピューティヤ大祭』
『デルポイ神殿』
『天道 (新宗教)』
『青銅の鼎』
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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2012年11月17日土曜日
殷・商に色濃く残って残っていたウバイドの文化
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:12頁
《殷・商に色濃く残って残っていたウバイドの文化》
「殷・商に色濃く残って残っていたウバイドの文化」
ここでウバイドの移動と殷への渡航について、
精密に再検討してみよう。
鳥羽、伊豆と太平洋岸を北上して着いた土地=房総半島に残る
「夷隅」の地名も、
イズミ=イヅミで、伊豆から来た人々を意味することはすぐ判る。
では語尾の「ミ」は何を意味するのか?。
これは古代の命名法をみると、
イサナミの命の「ミ」である。
イサナキの「キ」は男王を意味し、
イサナミの「ミ」は女王を意味していたから、
イヅミはイド女王という国名の遺物だったのである。
それが伊奴になり伊奈と変わり、
殷と変わって、稲敷という部名を残しているので、
インダの名も共に使われていたことがわかる。
そして漢字の当て字が使われ、
時の経過につれて読み方が変化したから、
伊ン奴(ド)の奴がドからナと読み方が変ったので、
当て字も伊奈に変ったという歴史まで理解できる。
ウバイドの女帝制は間違いなく稲敷まで継続していたのであり、
中国へ渡ってから男王制になったようにみえるが、
その滅亡の原因は、
紂王が妲己(ダッキ)という妃に支配されて、
悪政を犯したためだとされているから、
やはり女性上位だった可能性が浮かび上がってくる。
それは殷の政治が神託によるものであって、
巫女の託宣に左右されていた事実が、
遺品の甲骨文から鮮明に読み取れるからで、
ウバイドから来た文明が、
殷・商に色濃く残っていることは疑いない。
『殷・商』
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