ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年11月15日木曜日
登呂遺跡の名はトロイヤ人の居住記録
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録35:10頁
《登呂遺跡の名はトロイヤ人の居住記録》
「登呂遺跡の名はトロイヤ人の居住記録」
その伊豆半島の西の対岸にある静岡市の、
JR静岡駅の南2キロほどの一帯に弥生時代の広大な特別史跡・
登呂遺跡(約160平方キロ)がある。
その地名はトロイ戦争という名で知られてきた
ギリシャ史に名高い国名と同じ地名なのである。
トロイというのは英語読みの略称で、正しくはトロイヤだったのであり、
語尾のイヤはギリシャ語の「国・地域」という名詞だから、
本来の国名は「トロ」だからである。
取手市だけがギリシャ人の遺跡ではない。
その登呂遺跡の東北に隣接して清水市の草薙がある。
ここは倭建命の革薙の剣伝承で有名な地名である。
倭建命の物語は
トロイ戦争最大のヒーロー=アキレウスの物語と多くの共通点をもっているから、
ここへギリシャ系の海人が住んだことは間違いない。
そして彼等は倭建命の伝承通りに房総半島を北上している。
『日本書紀』は日本武尊=倭建命が相模から上総へ行こうと船出して
「馳(はし)り水」という海域で暴風に遭い、
后の弟橘姫が投身して暴風を鎮め、
命たちを救ったという一節がある。
これらを一人の武尊の歴史だとするのは無理だが、
こうした伝承を生んだ史実があったことは、
これらの地名や遺跡の分布からみて、
間違いなく真実だったと認めるしかない。
『日本書紀』は多くの伝承を混合して一事跡としている例が少なくないが、
個々の伝導は事実の記録だからである。
『登呂遺跡』
『アキレウス』
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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