2012年11月10日土曜日

『詩経』が二重に立証している殷人=隼人



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録35:4頁

 《『詩経』が二重に立証している殷人=隼人
 「『詩経』が二重に立証している殷人=隼人

 ではそのインダというウバイドでの原名は何だったのか?。

 それは農産の神・イナンナ女神から来ていることは、

 もうご存じの通りで、

 それがイネ=稲の語源にもなっている。

 イナンナ、

 稲ん女(な)、

 稲ん田(だ)、

 イナダ、

 イヌダ、

 インダであって、

 これからさらにイン=殷が生まれたこともお話しした。

 この殷が夏王朝を倒したことも、

 『魏書』の烏丸・鮮卑・東夷の条の冒頭に

 「書(『尚書・書経』)は「蛮夷は夏を猾(みだ)す」と載せ、詩(『詩経』)は
 
 「儼允(ケンイン)は孔熾と称して久しい」とあって、

 夏王朝が実在したこと、

 それを倒したのが儼允(ケンイン)であることを証言しているが、

 このケンは犬(けん)、インも犬(いぬ)、

 中国語発音と南九州語発音を並べて書いてあるということに注意がいる。

 なぜなら卑弥呼の都があった隼人出身者は、
 
 のちの大和朝廷の儀式では『犬吠え』をして奉仕し、

 犬人と呼ばれていたからである。

 殷人は犬人で隼人だったのである。

 殷帝国をつくり、貝貨幣の力で栄えたその貝貨幣産業は、
           
 沖縄を中心とする

 高族(高麗(たから)人=カリエン=カルデアン)のものだったのだから、
 
 沖縄語が濃く入り混じる大隅語を話す隼人=海人と、

 夏を倒した航海者殷人は疑いもなく、

 インダ、イヌダと呼ばれた同じ犬人で、

 倭隼人(倭=ウバイド)そのものだったのである。

 また貝も中国語でバイ、倭貝奴・大貝奴と書いてもやはりウバイドなのだ。

 『イナンナ

  書載「蠻夷猾夏」,詩稱「玁狁孔熾」,久矣其爲中國患也。秦、漢以來,匈奴久爲邊害。孝武雖外事四夷,東平兩越、朝鮮,西討貳師、大宛,開邛苲、夜郎之道,然皆在荒服之外,不能爲中國輕重。而匈奴最逼於諸夏,胡騎南侵則三邊受敵,是以屢遣衛、霍之將,深入北伐,窮追單于,奪其饒衍之地。後遂保塞稱籓,世以衰弱。建安中,呼廚泉南單于入朝,遂留內侍,使右賢王撫其國,而匈奴折節,過於漢舊。然烏丸、鮮卑稍更強盛,亦因漢末之亂,中國多事,不遑外討,故得擅漢漠南之地,寇暴城邑,殺略人民,北邊仍受其困。會袁紹兼河北,乃撫有三郡烏丸,寵其名王而收其精騎。其後尚、熙又逃於蹋頓。蹋頓又驍武,邊長老皆比之冒頓,恃其阻遠,敢受亡命,以雄百蠻。太祖潛師北伐,出其不意,一戰而定之,夷狄懾服,威振朔土。遂引烏丸之衆服從征討,而邊民得用安息。後鮮卑大人軻比能復製禦群狄,盡收匈奴故地,自雲中、五原以東抵遼水,皆爲鮮卑庭。數犯塞寇邊,幽、並苦之。田豫有馬城之圍,畢軌有陘北之敗。青龍中,帝乃聽王雄,遣劍客刺之。然後種落離散,互相侵伐,強者遠遁,弱者請服。由是邊陲差安,漢漠南少事,雖時頗鈔盜,不能復相扇動矣。烏丸、鮮卑即古所謂東胡也。其習俗、前事,撰漢記者已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來,以備四夷之變云。魏書曰:烏丸者,東胡也。漢初,匈奴冒頓滅其國,餘類保烏丸山,因以爲號焉。俗善騎射,隨水草放牧,居無常處,以穹廬爲宅,皆東向。日弋獵禽獸,食肉飲酪,以毛毳爲衣。貴少賤老,其性悍驁,怒則殺父兄,而終不害其母,以母有族類,父兄以己爲種,無復報者故也。常推募勇健能理決鬥訟相侵犯者爲大人,邑落各有小帥,不世繼也。數百千落自爲一部,大人有所召呼,刻木爲信,邑落傳行,無文字,而部衆莫敢違犯。氏姓無常,以大人健者名字爲姓。大人已下,各自畜牧治產,不相徭役。其嫁娶皆先私通,略將女去,或半歲百日,然後遣媒人送馬牛羊以爲聘娶之禮。婿隨妻歸,見妻家無尊卑,旦起皆拜,而不自拜其父母。爲妻家僕役二年,妻家乃厚遣送女,居處財物,一出妻家。故其俗從婦人計,至戰鬥時,乃自決之。父子男女,相對蹲踞,悉髡頭以爲輕便。婦人至嫁時乃養發,分爲髻,著句決,飾以金碧,猶中國有冠步搖也。父兄死,妻後母執嫂;若無執嫂者,則己子以親之次妻伯叔焉,死則歸其故夫。俗識鳥獸孕乳,時以四節,耕種常用布穀鳴爲候。地宜青穄、東牆,東牆似蓬草,實如葵子,至十月熟。能作白酒,而不知作麹蘖。米常仰中國。大人能作弓矢鞍勒,鍛金鐵爲兵器,能刺韋作文繡,織縷氈毼。有病,知以艾灸,或燒石自熨,燒地臥上,或隨痛病處,以刀決脈出血,及祝天地山川之神,無針藥。貴兵死,斂屍有棺,始死則哭,葬則歌舞相送。肥養犬,以采繩嬰牽,並取亡者所乘馬、衣物、生時服飾,皆燒以送之。特屬累犬,使護死者神靈歸乎赤山。赤山在遼東西北數千里,如中國人以死之魂神歸泰山也。至葬日,夜聚親舊員坐,牽犬馬曆位,或歌哭者,擲肉與之。使二人口頌咒文,使死者魂神徑至,歷險阻,勿令橫鬼遮護,達其赤山,然後殺犬馬衣物燒之。敬鬼神,祠天地日月星辰山川,及先大人有健名者,亦同祠以牛羊,祠畢皆燒之。飲食必先祭。其約法,違大人言死,盜不止死。其相殘殺,令都落自相報,相報不止,詣大人平之,有罪者出其牛羊以贖死命,乃止。自殺其父兄無罪。其亡叛爲大人所捕者,諸邑落不肯受,皆逐使至雍狂地。地無山,有沙漠、流水、草木,多蝮蛇,在丁令之西南,烏孫之東北,以窮困之。自其先爲匈奴所破之後,人衆孤弱,爲匈奴臣服,常歲輸牛馬羊,過時不具,輒虜其妻子。至匈奴壹衍鞮單于時,烏丸轉強,發掘匈奴單于塚,將以報冒頓所破之恥。壹衍鞮單于大怒,發二萬騎以擊烏丸。大將軍霍光聞之,遣度遼將軍范明友將三萬騎出遼東追擊匈奴。比明友兵至,匈奴已引去。烏丸新被匈奴兵,乘其衰弊,遂進擊烏丸,斬首六千餘級,獲三王首還。後數復犯塞,明友輒征破之。至王莽末,並與匈奴爲寇。光武定天下,遣伏波將軍馬援將三千騎,從五原關出塞征之,無利,而殺馬千餘匹。烏丸遂盛,鈔擊匈奴,匈奴轉徙千里,漠南地空。建武二十五年,烏丸大人郝旦等九千餘人率衆詣闕,封其渠帥爲侯王者八十餘人,使居塞內,布列遼東屬國、遼西、右北平、漁陽、廣陽、上穀、代郡、雁門、太原、朔方諸郡界,招來種人,給其衣食,置校尉以領護之,遂爲漢偵備,擊匈奴、鮮卑。至永平中,漁陽烏丸大人欽志賁帥種人叛,鮮卑還爲寇害,遼東太守祭肜募殺志賁,遂破其衆。至安帝時,漁陽、右北平、雁門烏丸率衆王無何等復與鮮卑、匈奴合,鈔略代郡、上穀、涿郡、五原,乃以大司農何熙行車騎將軍,左右羽林五營士,發緣邊七郡黎陽營兵合二萬人擊之。匈奴降,鮮卑、烏丸各還塞外。是後,烏丸稍復親附,拜其大人戎末廆爲都尉。至順帝時,戎末廆率將王侯咄歸、去延等從烏丸校尉耿曄出塞擊鮮卑有功,還皆拜爲率衆王,賜束帛。

 《パーリ語辞典
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