ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年10月6日土曜日
倭人という国名は末盧国と伊都国とで出来たもの
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録33:22頁
《倭人という国名は末盧国と伊都国とで出来たもの》
「倭人という国名は末盧国と伊都国とで出来たもの」
これは双方とも本州にあるから、
そのルーツは九州にあるはずである。
それは倭人であることは判っているが、
それが具体的に2分割された場所を探すと、
伊豆に当たる伊都があり、
隣接して末盧国=馬津国(マツラ)がある。
ここは「ウマ=ウバ」で「姥津国」とも書ける。
ウバイドから<ウバ>と<イト>に分かれ、
馬津国という当て字のため、
のちに発音がマツラに変わったが、
これが卑弥呼を共立した連邦の大王らの領地だったことは疑問の余地がないから、
ウバイドという国名は、
丁度、孝安天皇の時代に、九州北部に実在していたことは疑いない。
魏人が倭人と当て字したのはそのためで、
それはごく自然で当然なことだったということになる。
ただし、『記・紀』の系譜は、
本来、同族ではあっても、実の親子でない天皇たちを、
父子の関係に結びつけたものだと、既によく判っているから、
考安天皇を卑弥呼の祖父だと限定する必要はない。
倭人連邦の有力な大王の1人で天皇家の一族だったことは間違いない。
このことで私たちは
『魏書倭人章』が一層、価値を高め、我が国の史実を復元し、
その復元内容を保証することを、
世界の人々に強く印象づけることに成功した。
こうして追求してくると
『魏書倭人章』も『記・紀』も、ますます史実を詳細に物語って、
その価値はいよいよ高まった。
私たちのこれまでの苦闘と努力は大きく報われたのである。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
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『言語復原史学会:画像』
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