2012年10月15日月曜日

シバの女王の国・オマーンの名は何を語るか?



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録33:31頁

 《シバの女王の国・オマーンの名は何を語るか?
 「シバの女王の国・オマーンの名は何を語るか?

 これで、

 卑弥呼も壹與も、

 即位が、なぜ?どちらも少女時代だったか?まで判った。

 それはウバイド期以来の倭人帝国の、独特の知恵の結晶だったのである。

 しかし当時の世界を、

 中国から西へエジプト・ローマに至るまで眺めて見ても、

 女王国は見当たらない。

 ただ1つ聖書に記録されたシバの女王がいるだけである。

 シバの名はインドの大神・シバと同じで、

 ウバイドの東南、

 アラビア半島の突端にあった国である。

 そこには今、オマーンという独立国があり、

 オマーン湾を隔ててイラン・パキスタンと向き合っている。

 インドと共通の名があっても少しも不思議ではないし、

 そのオマーンも

 沖縄語で読めば馬ン国=馬津国であり、

 それは前述したように、

 3~4世紀の末盧=松浦・馬韓・百済という重要国名を生んだし、

 馬津は馬野=真野=麻野=浅野や、松田・松尾・松平という姓氏を増殖した名詞でもある。

 ことに松尾は馬津王が語源で、松尾神社は酒神として尊崇を集め、

 その出自が近東にあることを記録している。

 なぜならギリシャの酒神・ディオニュッソス(ローマのバッカス)は

 中近東が故郷であり、

 バッカスの名は日本では、

 「酒は人間を馬鹿者にする」という意味をもっているからである。

 オマーンという国名は私たちとは縁遠く見えていたと思うが、

 そこにシバの女王がいたのは、

 倭人との濃い血の繋がりを立証しているのである。

 《パーリ語辞典
 「パーリ語辞典

 『参考』
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