2012年7月5日木曜日

スサノオの名乗りは、スサの王家へ入り婿後のもの



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録30:14頁

 《スサノオの名乗りは、スサの王家へ入り婿後のもの
 「スサノオの名乗りは、スサの王家へ入り婿後のもの

 「稲田宮主簀狭八箇耳」という名乗りは、

 一書<2>では稲田媛の父の名乗りになっているが

 一書<3>では母の名乗りになっている。

 <男王と女王の問題>がここにも見られる。

 この名乗りはどんな内容を記録しているのだろう?。

 島根県の地名と照合すると、稲田神社が仁多郡横田町にあり、

 簀狭に合う須佐神社が簸川郡佐田町にある。

 八箇はヤツカと読めるから八束(やつか)郡に合う。

 <宮主>は<ミヤヌシ>と読んだのでは候補地は見つからないが、

 <ミヤヅ>と読むと少し離れるが同じ山陰の丹後に京都府宮津市がある。

 <宮主>はまた<クシュ>とも読めるから

 奇(くし)稲田媛の「奇(くし)」も同じものにみえる。

 この<クシ>に合う地名も安来市に久白(くしろ)町がある。

 これで出雲から丹後に及ぶ、

 山陰のかなりの広域を領有していた王の名乗りだったように見える。

 だがまだ結論することはできない。

 これで発音上では揃うのだが、

 主人公夫妻の名乗りの稲田と簀狭が地名ではなく神社名である。

 肝心の地名が全然ないのは

 出雲の大王・スサノオ夫妻の遺跡はここではないという

 証拠なのである。

 他にこの名乗りに合う地域を探す必要があるし、

 またこの簀狭の領主だったのは稲田媛一族のほうで、

 本来のスサの王は妻になった稲田媛の両親のどちらかだったのである。

 スサノオは「入り婿」になってから始めて

 「スサノオ」になったのであることを、

 ここで確認して絶対に忘れてはならない。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
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