2012年7月2日月曜日

仁徳系記事が暴露している『倭国(イナバ)のウサギ』の比喩



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録30:11頁

 《仁徳系記事が暴露している『倭国(イナバ)のウサギ』の比喩
 「仁徳系記事が暴露している『倭国(イナバ)のウサギ』の比喩

 こうした事実を考え合わせると、

 『記・紀』の仁徳系記事の偏向(かたよ)りや、

 奈良朝人事が仁徳系の子孫をもたないのを、

 単なる差別や虐待のせいだと思うのは、

 単純過ぎることになる。

 それは前にお話ししたように、

 仁徳天皇と磐之姫皇后の話は、

 大国主夫妻の話と余りにもそっくりで、

 仁徳=大国主の部分が実在しているし、

 また<白ウサギの挿話>も、<仁徳天皇自身の名がウサギ>なのだから、

 彼は<大国主の後継者>として<ガマのホワタ>に見合う存在に包まれたことによって、

 次代の大国主として再生したという話になる。

 これらは何を意味するか?。

 忘れてならないのは倭国は卑弥呼時代から

 推古、斉明まで、

 ざっと見ても女王制国家で、

 日本になってからでも持統、元明、元正、孝謙とそれは続いた。

 これは<倭=優婆畏(ウワイ)>で、それを国名にしているのだから、

 女王制は当然すぎるほど当然なことなのだ。

 仁徳系の天皇たちは

 文字通り<クシャトリヤ=武者棟梁=大元帥>の時代だったのである。

 その本来の倭は言うまでもなく<ソナカ仏教皇室>で

 『日本書紀』が<蘇我(ソナカ)>と当て字した人たちだから、

 大戦後は大半が近畿から逃げて、

 石川麻呂らのごく少数が人質として飛鳥に残ったに過ぎない。

 これが<仁徳系の実像>だから、

 その子孫が奈良朝政権に入れられなかったのは当然である。

 はるか東北へ亡命した人々でさえ、

 平安朝まで「蝦夷」として討伐を受け続けたのだから……。

 『参考』
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