ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年12月30日金曜日
『日本書紀私記』が創作した阿礼と安萬侶像
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録23:32頁
《『日本書紀私記』が創作した阿礼と安萬侶像》
《『日本書紀私記』が創作した阿礼と安萬侶像》
ではその偽書筆者は誰なのか?。
過去にも『古事記』偽書説は幾つも現われた。
その1人、中沢見明氏は
『日本書紀私記(略称・弘仁(こうにん)私記)』の筆者・多の人長だろう
と推論している。
その『私記』の序文には
「稗田阿礼は天の鈿女(うづめ)の命の後」と注が付記してある。
しかしこれが『古事記』の序文以外では唯一のもので、
他には稗田阿礼の記事はない。
また太の安萬侶が舎人親王と『日本書紀』を編纂したというのも、
同じ部分に書いてあるだけなのである。
『古事記』とこの『私記』の序文だけが、
阿礼を作り出し、安萬侶を大物に仕立てている。
1979年に奈良市の山の上にある茶畑で安萬侶の基と墓誌が見付かった、
それにも『私記』が書くそんな重要な事跡は書いてない。
ともに多の人長(ひとなが)の創作だったのである。
そんなにまでして、
『古事記』が天武天皇の命令で稗田阿礼という天才に記憶されたものだと印象づけ、
『古事記』序文の信憑牲を何とかして高めたいとしているのは、
彼の焦りの現われである。
人長(ひとなが)が『古事記』と序文の作者だった証拠の「決め手」だ。
隅田先生のご寄稿ご設問以来、多くのご異見が寄せられたので、
こうして『定義』の焦点を『古事記』偽書説に当ててみた。
以上の結論は、すでに『定義』できている。
もちろん後にまだ多くの問題が残っているが、
『記・紀』の実態という重大問題には答が見えた。
今後もご熟読ご深考をお願い申し上げる。
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