ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年11月30日水曜日
『定義』の真価。角が有る人。伽耶時代の地名
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:32頁
《『定義』の真価。角が有る人。伽耶時代の地名》
《『定義』の真価。角が有る人。伽耶時代の地名》
これで、
『記・紀』の実態の『定義』がなければ、
仲哀天皇の史実などまるでわからず、
『魏書倭人章』の書く卑弥呼の記録を生んだ史実も、
またわからないことが、
よくおわかり戴けたと思う。
こんな『記・紀』研究の最も大切な基礎問題すら、
いままで思考の片隅にもなかったのが、
在来の史学界なのである。
大学院講義録の真価をよくご瞑想、ご確認いただきたい。
伽耶時代の地名 日韓同名比較
イ 韓 姶良
ロ 百済 長谷
ハ 新羅 開聞
ニ 伽耶 鹿屋
ホ 多羅 太良
ヘ 滞沙 帖佐
ト 安羅 安楽
チ 比自火 菱刈
リ 智異山 霧島
ヌ 大伽耶 鵜草
ル 太田 太田
オ 星山 星山
ワ 玉田 玉田
カ 錦江 錦江
すべて鹿児島県の地名に合う。
『角が有る人』のコイン 復原史学史料館蔵
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2011年11月29日火曜日
卑弥呼を神功皇后にした2つの遺志
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:31頁
《卑弥呼を神功皇后にした2つの遺志》
《卑弥呼を神功皇后にした2つの遺志》
また若き卑弥呼の神功皇后としての活躍は朝鮮半島にも及んだ。
いわゆる三韓征伐である。
その事実を記録しているのが、息長帯姫という名乗りである。
息長はソナカへの当て字で、
帯は帯方郡、すなわち半島中部の帯状地帯をさす中国名だった。
そこは魏が景初に公孫氏を滅ぼすまでは、
漢政権の衰えで郡とは名のみの自治区であり、
公孫氏が税を懐に入れていた。
卑弥呼はそこを仏教圏にして実質的支配下に置いたのである。
それが可能だったのは彼女が、
高句麗まで支配していた孝霊天皇の皇女だったからで、
「三韓征伐」などという侵略行為があったわけではない。
そこの住民は稲作に適さず無人に近い土地を改良して、
次第に定着していった南九州からの移民だったのである。
それを立証しているのが半島南部の地名である。
下記の、伽耶時代の地名比較をご覧いただけば、
その史実は一目瞭然である。
こうして卑弥呼は海を越えて五彩圏を拡大した。
それはソナカ=仲哀天皇の遺志であると同時に、
アレクサンドロス大王の遺命だった
八紘一宇の実現でもあったのである。
卑弥呼が、
魏が極秘で進めた公孫氏抹殺作戦を事前に予知して
難升米らを派遣した事実も、
この五彩圏情報網の存在がわかれば、
偶然ではなかったことがわかる。
それは記録通り景初2年6月でなければ意味をなさない。
景初3年説は、無知を暴露しているだけなのである。
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2011年11月28日月曜日
吉備と播磨に濃厚に残る伝承と倭国の誕生
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:30頁
《吉備と播磨に濃厚に残る伝承と倭国の誕生》
《吉備と播磨に濃厚に残る伝承と倭国の誕生》
彼はその名乗りで吉備すなわち広島、岡山県と結びついているが、
その付近には神功皇后関係の伝説や遺跡だとされるものが濃厚に分布しており、
卑弥呼のヒメコに対する当て字の一つ・
姫児を姫路と書き替えた都市も近く、
天皇が彼に住めと与えたという淡路島もある。
そこは播磨で、
巴利国(ハリま)の人々の移動発展の跡であることは、
よくご存じの通りだ。
天日槍の伝承がその北部の
但馬の宍粟(しさわ)や出島(出石(いづし))を挙げ、
彼の子孫が但馬で栄えたというのもまた、
吉備津彦伝承を伝えた人たちの子孫が、
次第に拡大した地域としてみれば、実に美事に適合している。
そして何よりも仲哀天皇の行動範囲が、
東は福井県の角賀(敦賀)から、
西は九州の伊覩県(イトのあがた)の間にあり、
伊覩の五十迩手の献上品を受けるが、
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)も伊都都比古と会う。
この名は
五十迩手(イトトテ・イトツ)と
伊都都(イトト・イトツ)で
同じ名の当て字差だとすぐわかるから。
もとの史実は1つだ。
けれど仲哀天皇と神功皇后はスレ違って少ししか逢えない。
会ってすぐ戦死する。
しかしソナカの遺志を継いだ
卑弥呼は宣布団のアマゾン(天孫=尼僧)1000人を率いて
憂婆畏(ウワイ)女王として転戦し、ついに共立されて連邦の女王になる。
それを帯方郡使は準国名として同音の
倭(ウワイ)=ウワイの字を当て字して報告書を作った。
これが倭国誕生の真相なのである。
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2011年11月27日日曜日
彦五十狭芹彦(戦さの君)が仲哀天皇
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:29頁
《彦五十狭芹彦(戦さの君)が仲哀天皇》
《彦五十狭芹彦(戦さの君)が仲哀天皇》
しかし、この『定義』はまだ、論理的に正しいと言えるだけで、
それによって納得がいくまで真実の史実が復元できなければ、
在来の学説同様、屁理屈の域を出ない。
だから、この『定義』が正しいかどうか?をみるために、
仲哀天皇を正しい時代の正しい位置に戻せるかどうか?、検証してみよう。
言語復原史学では、
『記・紀』の天皇系譜は、
次の天皇夫妻を共に皇子女として併記していることを発見している。
妻は妹の位置に居る。
だから孝霊天皇の系譜には、
卑弥呼=倭迩迩日百襲姫の夫・ソナカ=仲哀天皇が、
必ず入っていなければならない。
その手掛かりは、彼の様々な別名である。
すると先に見たように天日矛に対応する
泄謨觚柄渠觚(シモクァピンチュウクァ)が
『魏書倭人章』の官名記録にある。
これに非常に近い
シモキビツヒコ=下吉備津彦が原型とみるしかない
「吉備津彦」が、その中に入っている。
彼は五十狭芹彦=イッサンキン=「戦さの君」
という名乗りももっているから。
葦原中国を取るために派遣された
(ソナカも倭国を仏教圏に入れるために派遣された)勇士であり、
そのため戦死した天稚彦=仲哀天皇に完全に合う条件が、
幾重にも揃っている。
すると彼は系譜では百襲姫の兄の位置に書かれているから、
その夫であったとみて間違いない。
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2011年11月26日土曜日
『記・紀』の書名が、誰が編纂者かの動かぬ証拠
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:28頁
《『記・紀』の書名が、誰が編纂者かの動かぬ証拠》
《『記・紀』の書名が、誰が編纂者かの動かぬ証拠》
H こう見てくると、誰がそんな無理な統一隠しを企てたか、よく見えてくる。
卑弥呼の影を消して、壹與を建国の女帝として顕彰したいのは、
壹與=嚇居世を初代とする新羅の故郷、
開聞(ひらきき)=枚聞(ひらきっ)を首都とした小国日本の王・
天命開別の専=金春秋=天智天皇以外にはない。
I なぜ『神功皇后紀』が、
卑弥呼と壹與の事跡をダブらせたものだったか、
これで非常によくわかる。
『日本書紀』は日本の始祖を、卑弥呼でなく壹與にしたかったのである。
J だから『日本書紀』は、
その書名がはっきり証明しているように、
日本王・天智天皇の企画した国史なのである。
かりに天武天皇が企画したのなら、書名に日本などとつけない。
『日本書紀』は間違いなく天智天皇が編纂させた
「日本国の国史」だったのだ。
だからこそ彼と対立した天武天皇は、
自選の国史に『古事記』という名をつけたのである。
そして国名も日本を避けて、全て『倭』にした。
対立は長く尾を引いていたことがわかる。
K これで、
『記・紀』とは何か?だけでなく、
『日本書紀』と『古事記』もまた「どんな書物か」わかった。
それは倭国と日本国の統一だけでなく、
それ以前の統一過程で合体した国々の王たちへの配慮も混じった、
非常に政治的な「作品」にせざるを得なかったのである。
「『記・紀』とは何か?」。
これがその答=『定義』である。
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2011年11月25日金曜日
本来不可能な統一隠しを強行した『記・紀』編纂
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:27頁
《本来不可能な統一隠しを強行した『記・紀』編纂》
《本来不可能な統一隠しを強行した『記・紀』編纂》
E さらに、
これには垂仁天皇と戦い続けた景行天皇の記事が、
垂仁天皇の次の天皇としてはいり、
さらに仲哀天皇の前に、仲哀天皇の父が成務天皇として加えられた。
こうして仲哀天皇は、
とんでもなく後世の天皇だということになってしまったのである。
F 『記・紀』は、
倭国と日本国が合併したから必要になって作られた国史だった。
双方の旧国民を納得させるためには、
双方の天皇たちを、
全部、皇祖皇宗として記録しなければ、必ず内乱が起こる。
しかし本来、別々の系図に並んだ先祖代々の系譜を、
2本並べて併記することは出来るが、
それでは将来に禍根を残すから、
倭国と日本は古来、1つの国であったとして、
国史を書き直したのである。
2本の系図を1本にするには、
同時存在を全て父か子の位置に移さなければならない。
『記・紀』は
最初から、こうした矛盾を覚悟して、過去を犠牲にして、
未来の安定・幸福を願って作られた、苦肉の作品だったのである。
G 本来、
2冊なければ書けない同時存在の2国の歴史を、
1国の歴史として1冊に同時に書くことは、どんなにしても不可能である。
ことに同時存在の複数の天皇を、
対立させずに同時に書くことなど、できるはずがない。
『記・紀』の編纂は、
根本から無理な注文の充満した厄介きわまる難事業だったことを、
改めて認識し直すことが必要である。
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2011年11月24日木曜日
仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:26頁
《仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置》
《仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置》
次は、この定義が、どう役に立つのか?、例をあげて見てみよう。
A 高皇産霊の尊は神代の神ではなく、仲哀天皇を殺した熊襲である。
その時間帯はソナカの妻・卑弥呼の若い時の事件だから、
倭迩迩日百襲姫の父・孝霊天皇の時代である。
詳細は今後の研究が必要だが、
淡海三船がつけた漢風諡号が意味をもつとすれば、
孝霊は「高=皇+霊]を暗示しているから、
高皇産霊尊は孝霊天皇だった可能性が高い。
B これが違っていたとしても、
仲哀天皇がその「孝霊天皇と同時代の人」であることには変わりはない。
前記のソナカ関連の記事全部と『仲哀天皇紀』はすべて、
『孝霊天皇紀』と併記しなければウソになるのである。
C するとソナカが崇神天皇の時に来て、
垂仁天皇のときに帰ったというのもウソになる。
崇神天皇は孝霊天皇の曾孫になっているからだ。
D 『記・紀』は、
その仲哀天皇を、崇神天皇のそのまた曾孫・成務天皇の皇子だと書く。
なぜ?『仲哀天皇紀』は、
そんなに後へ行ってしまったのだろうか?。
それはご存じの通り卑弥呼と壹與の2人の事跡を、
1人の神功皇后にダブらせて編集してしまったので、
後世に大活躍した<壹與>の印象が強くて、
垂仁天皇より後へもって行かれたのである。
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2011年11月23日水曜日
『記・紀』の『定義』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:25頁
《『記・紀』の『定義』》
《『記・紀』の『定義』》
大学院講義録22の主題は『記・紀』とは
こんな史書だという決定的な「定義」を発見することだった。
それはソナカの史料群が非常に適確に役に立って、
もう二度と動くことのない結論が出た。
その定義を要約しておこう。
① 『記・紀』とは……歴史書としてみると、
同一人の記事を、時代の違う部分に分散させて
編集してしまった、『時間的にルーズな、誤りに満ちた欠陥史書』である。
『古事記』は時間帯を書かないので、一見、問題がないように錯覚する人もあるが、
そこに書かれたF天皇紀』は同一で、本当は同時存在の敵・味方だった天皇たちが、
親子として一つの家系に配置されているから、その部分は世代が倍加している。
だから結局は『古事記』も『日本書紀』と同じで、
『記・紀』はそのままでは時間的な指標には使えない。
② しかしそれらの個々の記録は、立場のちがう人々が、
各々の視点で観察して記録した実録である。
だから『記・紀』とは、
貴重な史実を集大成して保存している点では、
実に『素晴らしい記録の宝庫』であり、
それらの記録を正しい時代に戻して、
史実を復元するという歴史本来の仕事をやり残した
『未完成の史書』である。
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2011年11月22日火曜日
いま初めて可能になった『記・紀』評価
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:24頁
《いま初めて可能になった『記・紀』評価》
《いま初めて可能になった『記・紀』評価》
こうした真相を理解できずに、
『記・紀』は太古から不変の統一国家の統一政府が、
常に一つの視点で時を追って記録した、
VTRのような記録だと、昔ながらに思い込んでいると、
このソナカの例などは、
愛想がつきるはど出鱈目な編集の、
恥ずべき国史に見えてしまう。
もし仮に、『記・紀』の編集者たちが、
見せかけだけの国史を創作しようとしたのなら、
これらのソナカ関連の記録にも手を加えて、
どこをみても食い違わない立派な『仲哀天皇紀』になっていたはずである。
ところが今、その一貫性のない記事のお陰で、
日本の統一過程の真相を見ることができたのは、
編集者たちが小細工をせずに、
ありのままの記録をそのまま残したからである。
現実にソナカ関連の複数の記録が、一つずつ違っていることは、
『記・紀』の内容が出鱈目なことの証拠ではなく、
集めた史料の原典を編集者が尊んだことと、
だからこそ『記・紀』は、その存在価値が高いのだということを、
重ねて立証しているのである。
だからこうして
『記・紀』の実態が理解できなければ、
『記・紀』とはどんなものか?という「定義」などできないことも、
よくおわかり戴けたと思う。
本当の
『記・紀』の評価は、
こうして、いま初めて可能になったのだということを、
改めてよくご記憶いただきたい。
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『記・紀』は建国の真相を記録保存している史料
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:23頁
《『記・紀』は建国の真相を記録保存している史料》
《『記・紀』は建国の真相を記録保存している史料》
これでお解りのように、『記・紀』を、
太古から統一された日本の『正史』だと思いこんでいると、
同一人物をバラバラにして、
神代から、はるか後世まで『史実』らしく配置して編集し、
立派な歴史書らしく体裁を整えた、とんでもないインチキ国史に見える。
しかし、
別人に見えるほど異なる名や内容も、
それを記録した人の国籍や立場によって、
呼び名が変わり、発音が変わり、評価が変わって、
別物のようになることがわかると、
この事件の主人公ソナカは。
彼の味方からみれば国家の始祖であり、
犠牲になった靖国の神だが、
その敵からみれば裏切り者であり、
非業の死を遂げたのは当然だということになる。
だから身内から見れば彼を殺した敵は熊襲という蛮人であり、
逆に殺した方からみれば、
その殺害者は熊襲どころか、
専敬すべき神々の皇帝、高皇産霊の尊だということになる。
こうしたことを、双方が思いのままに記録したものを、
『記・紀』の編集者は、
そのまま手を加えずに、
別の時代の別の事件として配置したのである。
こうわかると、
『記・紀』は
従来は思いっきもしなかった建国期の真相を、
しっかり記録保存した「文献」として、
実に貴重な文化財だったことがわかる。
『記・紀』は在来の『歴史書』観では、
肝心の時代さえ混乱した悪史書だが、
『史料』という視点でみれば、史実記録の一大宝庫だったのである。
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『記・紀』は日本の統一過程を記録した文化財
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:22頁
《『記・紀』は日本の統一過程を記録した文化財》
《『記・紀』は日本の統一過程を記録した文化財》
では、卑弥呼が倭迩迩日百襲姫として登場する
『崇神天皇紀』なら、どうだろう?。
これも百襲姫は崇神天皇の伯母で、すでに老婆になっている。
彼女の亡夫・仲哀天皇は数十年前に死んでいるから、
崇神天皇より数代まえの天皇である。
ではなぜ?
崇神天皇の時に蘇那曷叱智、別名・都怒我阿羅斯等が来たと書き、
垂仁天皇のときに于斯岐阿利叱智干岐が来たと編集したのであろう?。
まず、はっきり言えることは、
『記・紀』の編集者たちは、
それらの名前が、
同一人のものだとは知らず、
ましてやそれが仲哀天皇の記録だ、などとは思いもせず、
考えて見ることもしなかったという事実である。
だからこそ、
何のこだわりもなしに、
一人のソナカの記事をばらばらにしてしまったのである。
このことは、それぞれの呼び名が違うように記録者も別人で、
ソナカに対する見方もまた異なっていた証拠である。
だから或る人たちは彼を始祖と考えて「神代」の存在とし、
他の人々は崇神天皇の時に渡来した人物とした。
さらにその出身国も様々な国名になった。
『記・紀』とは、
こうした
「様々な人々の国々が、次第に結合して倭国と日本国になった後、
さらに日本1国に統一された痕跡をそのまま残す『歴史文化財』だ」
というのが結論である。
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1世紀以上も時代を間違えて編集した『仲哀天皇紀』
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《1世紀以上も時代を間違えて編集した『仲哀天皇紀』》
《1世紀以上も時代を間違えて編集した『仲哀天皇紀』》
ではソナカ本人の記事である『仲哀天皇紀』や
『帯中日子天皇記』『神功皇后紀』などは正確なのだろうか?。
答は全部「ダメ」である。
そこに書かれている内容はともかく、
その時代が史実と、とんでもなく、かけ離れている。
史実のソナカは若い卑弥呼と結婚した。
その卑弥呼が倭国連邦の女王に共立されたのは、
中国後漢の桓帝と霊帝の間なのだから2世紀の後半である。
そのときソナカはすでに死んで卑弥呼は神功皇后として連戦した後だった。
以後、彼女は「夫婿なし」のままで248年の死を迎えた。
彼女を倒して邪馬壹国を樹立したのは、
彼女の宗女・壹與を女王に立てて政権を握った伊支馬=垂仁天皇なのだから、
ソナカが死んでから約70年経っている。
ところが、その垂仁天皇の皇子が景行天皇で、その皇子が成務天皇、
その皇子が仲哀天皇だというのだ。
どんなに計算してみても、実際より1世紀以上後の存在になっている。
垂仁天皇から見れば祖父より古い存在のソナカが、
『記・紀』では垂仁天皇の曾孫になっているのである。
これは歴史書としてダメだと言うほかない。
このことが明確に立証したことは、
前後関係がこんなに逆転している『記・紀』の系譜は、
実にいい加減なもので、
親子関係なども盲信できないということである。
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2011年11月18日金曜日
「神代の天稚彦」記事は明らかに編集ミス
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:20頁
《「神代の天稚彦」記事は明らかに編集ミス》
《「神代の天稚彦」記事は明らかに編集ミス》
それは「神代」に始まって、4世紀の『応神天皇記』にまで広がっている。
しかしいくら天皇が長命だからといって、数百年も生きるはずはない。
これは明らかに『記・紀』の編集が間違っている証拠なのである。
それなのに、在来の学説はすべて、
それが『記・紀』の
『天孫降臨』の中に入っているというので『神話』だとして済ましていた。
名前の此較検討も、内容の分析も、まるでせずに、
ただ『記・紀』を頭から信じて、
あるいは、頭ごなしに罵倒したり無視したりして、立場は違っているが、
『神話』だと決めて議論していたことには、変わりはない。
だが私たちはすでに、徹底した分析と再構成を終って、今、
大学院講義録22でごく簡単に再検討しただけで、
充分全貌を理解することができる。
だから、この簡単なリストが大きな機能を発揮する。
それを一見すれば『記・紀』のダメな部分が、はっきり見えるからである。
それは先ず『記・紀』が、
この天稚彦・天若日子の記事を「神代」の事件だとしているのは無茶だと教えている。
天稚彦の妻は卑弥呼なのだから、彼女がどんなに長寿だったにせよ、
2世紀から3世紀の人である。
それが紀元前660年の皇紀よりも、はるか昔だとする「神代」の事件として編集してある。
この編集が間違っていることは動かない。
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2011年11月17日木曜日
一人の天皇の記事が別人のように分散している事実
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:19頁
《一人の天皇の記事が別人のように分散している事実》
《一人の天皇の記事が別人のように分散している事実》
ソナカの記事はこのほかにも、
『仲哀天皇紀』『帯中日子天皇記』『神功皇后紀』にあることは、
よく御存知の通りである。
それらを見易いようにリスト化してみよう。
名前 肩書き 掲載位置
① 天稚彦・天若日子 高天原の神 『天孫降臨紀・記』
② 蘇那曷叱智 任那(みまな)国王子 『崇神天皇紀』
③ 都怒我阿羅斯等 意富加羅国王子 『垂仁天皇紀』
④ 于斯岐阿利叱智干岐 ③の別名 『垂仁天皇紀』
⑤ 天日槍 新羅王子 『垂仁天皇紀』
⑥ 足仲彦 天皇 『仲哀天皇紀』
『神功皇后紀』
⑦ 帯中日子 天皇 『帯中日子天皇記』
⑧ 天日矛 新羅国主の子 『応神天皇記』
もう一度、念を押すが、これだけの記事が、実は同一人の記事だったのである。
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『記・紀』は非常に高度な『史実記録集』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:18頁
《『記・紀』は非常に高度な『史実記録集』》
《『記・紀』は非常に高度な『史実記録集』》
こうした一連の名詞の裏には、
アレクサンドロスの歴史に対する深い知識と尊敬があり、
その功業を慕って子供に命名した知性があり、
またそれを王名として受け容れるだけの政治文化があった。
さらにそれを発展させて牛頭天王だとしたのは、
この神を守護陣とする仏教信仰が、
かなりの高さまで理解され、
定着していた事実を記録し表現しているのである。
これで『記・紀』の記事は、従来いわれてきたような、
文明世界から遠く孤立した世界の片隅の小列島に住む、
未開な原住民が、
おぞましい空想や思いっきを並べ立てたいい加減な神話やお伽話などではなく、
高度の世界史の知識に裏打ちされた、
非常に優れた『史実記録』だった、
ということが、ほとんど疑いの余地を残さない程に、明確に理解できる。
「『記・紀』とはどんな史書か?」という疑問には、
これで半(なか)ば確実な答がでたと言っていい。
『記・紀』は、
私たちが想像していた以上に、良質の真実を、
それも予想以上に高度な文明によちて熟成された史実を、
ありのままに記録していたのである。
だが喜んでばかりはいられない。
それは同時に、以上見てきた事実が動かぬ証拠になって、
「史書として許されない弱点」をもつこともまた、
白日のもとに暴露しているからである。
その欠陥も明確にして、
『記・紀』とは何か?という結論を求めてみよう。
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2011年11月15日火曜日
完璧に揃っている物証文化財「牛と角」の名乗り
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:17頁
《完璧に揃っている物証文化財「牛と角」の名乗り》
《完璧に揃っている物証文化財「牛と角」の名乗り》
⑩ ついでに次の<于斯岐阿利叱智>もお話ししておこう。
これも「牛で有る人」だとすぐわかるが、
それには正確な言語差の究明が必要である。
それは「岐」が、なぜ?「で」なのか?わからないからだ。
<岐>は<キ>だから、沖縄語では<チ>になる。
その沖縄語は
『記・紀』編纂当時の日本人は、
『百人一首』でわかる通り清音を使って濁音を避けている。
だからヂはチで、当て字は<キ>=「岐」を使ったのである。
この当て字は、沖縄語を話す人が付けたものなのだ。
すると最後の「智」も、
沖縄語では「都」も<ト>ではなく<チ>になるから「智」を当て字にしたのである。
そして「人」を<シト>と発音するのは大隅語だから、
この当て字は沖縄色の濃い大隅人がつけたものだと、断定できる。
しかしなぜ?、角が有る人。
牛で有る人。なのだろう?。
それは<ソナカシチ>そのものが、
<ソ>=牛(朝鮮語)、<ナ>=<の>、<カシタ>=<頭>
(カシラの南九州語)で、
<牛の頭>、牛頭(ごづ)天王を意味しているからなのである。
<ゴヅ>は今も<牛津>と当て字されて、
<卑弥呼>当時の<伊都国の跡>を立証し続けている。
ということは、
そこの副官だった<泄謨觚>の名乗りが語源だったことを、
幾重にも、今なお立証し続けている、
ということなのである。
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2011年11月14日月曜日
「下手な脚色」から史実を復元できる実例
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:16頁
《「下手な脚色」から史実を復元できる実例》
《「下手な脚色」から史実を復元できる実例》
天稚彦が死んだ時、下照姫たちは泣き悲しんでいた。
そこへ阿爾高日子根が現われた。
すると泣き悲しんでいた遺族が、
「天推彦が生き返った!」と喜んだ。
それを風貌がそっくりだったからだと説明するのは思慮が足りない。
なぜならその前に、天稚彦はツルカルニンと呼ばれていたからである。
これはアレクサンドロスの好んだ名だった。
その彼が死んだと嘆いている最中に、
「アレクサンドロス(阿爾鉏高日子根)が来た!」
という知らせが飛び込んできたら、
人々は
「それでは死んだというのは間違いだったか!」
と悲しみを喜びに変える。
この事件の真相は、こういった状況だったのである。
風貌などがそっくりだったというのではない。
ところが『記・紀』は、ともに細々(こまごま)とした葬儀の描写をして、
そこにソナカが横たわっているところへ、
阿爾鉏高日子根がやって来た話にしてしまっている。
これでは棺の中の人が起き上がったのを見なければ、
生き返ったという騒動にはならない。
下手な脚色がつき過ぎて不合理な物語にしてしまっているが、
現実には仲哀天皇は戦死して遺体が故郷に届くような状況はありえない。
だから情報だけが飛び交う中で、
2人のアレクサンドロスの名が悲喜劇を生んだというのが真実だとわかる。
史実は、こうして復元できるのである。
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2011年11月13日日曜日
「角が有る人」は非日本語の巨大文化遺産
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:15頁
《「角が有る人」は非日本語の巨大文化遺産》
《「角が有る人」は非日本語の巨大文化遺産》
ご記憶だと思うが、
それはアレクサンドロス大王の有名な称号の1つへの、当て字なのである。
その称号とは「ツルカルニン」である。
なぜなら「角我」を古来「ツヌガ」と読んで、
敦賀=ツルガのことだとしてきた。
敦賀という字がなぜ?ツルガと読めるのかわからないが、
この地名は現存していて常識になっている。
この読み方に間違いはない。
その次の阿羅斯等は、アラシトで、古来、「有る人」と読んできた。
これをツルカルニンに重ね合わせてみると
「ツルカ=角我」「ルニン=有る人(ニン)」だから、
「ツルカールニン」と少し引き延ばして発音すると、
「角我ある人」と1音も狂わず、ぴったり一致する。
アレクサンドロス大王は、その称号をペルシャの皇帝から引き継いだ。
そして頭に角飾りをつけて「角が有る人」として振る舞った。
その時は大王は、日本列島が存在することすら知らなかったのである。
それなのに、この称号は、まるで日本製のように、日本語そのものである。
だが、これは不思議でもなんでもない。
日本人が、祖先たちの素性を知らな過ぎただけなのである。
今では私たちは祖先の重要な構成分子が、ギリシャ人だったことを熟知し、
日本語がギリシャ文化の落し子だと知っている。
この名はその事実の動かぬ物証だったのだ。
それを疑えば、この名は永遠の謎に転落してしまい、
後世の笑いものになるしかない。
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2011年11月12日土曜日
仲哀天皇を殺した熊襲は高天原の皇祖
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:14頁
《仲哀天皇を殺した熊襲は高天原の皇祖》
《仲哀天皇を殺した熊襲は高天原の皇祖》
ソナカは仲哀天皇だから熊襲に殺された。
稚彦を殺した高皇産霊の尊は、
『古事記』では高木の神ともいうと書かれているし、
高天原の主である。
<高天>は<クマ>への当て字だったから、
<高皇>も<高木>も<タカコッ>への当て字。
<高国>・<タカコク>のこと。
これは<クマ>とも読む国名である。
そして高木の神も天照大神も皇祖と呼ばれている。
こうみてくると<クマソ>とは本来は<高国の皇祖>のことだったのである。
<天稚彦>はどう検討しても、間違いなく仲哀天皇である。
これにはさらにオマケがついている。
彼の死後の話として<味耜高彦根>(アジスキタカヒコネ)が登場する。
この名は『古事記』では<阿遅志貴高日子根>と当て字 してある。
これを別字にすると<阿爾鉏高日子根>ができる。
なぜそんなことをするかというと、
これなら<阿><ア><爾><レ><鉏><キ><高><サン><日><サン><子><サン>
<根><タラス>=<アレキサンドルス>という名が、
明瞭に浮かびあがると、本講でも他の著書でもお話しした。
しかしそれと<ソナカ>とどんな関係があるか?
ということになる。
お気づきと思うが、これにも、
先に見た垂仁紀の記事に答があるのである。
⑨ 垂仁天皇の2年の記事には、
<ソナカ>の名は<都怒我阿羅斯等>(ツヌガアラシト)、
別名を<于斯岐阿利叱智干岐>(ウシキアリシチカンキ)というとあった。
この<都怒我阿羅斯等>という当て字は、
そのままでも「角が有る人」と聞こえる。
しかし本当は日本語ではない。
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2011年11月11日金曜日
日矛も下照姫も伊都国官名の泄謨觚
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:13頁
《日矛も下照姫も伊都国官名の泄謨觚》
《日矛も下照姫も伊都国官名の泄謨觚》
⑧ このことは、妻の名が下照姫で別名を高姫・稚国玉ということでも、立証されている。
下はシタでなくシモと読むと、シホコをシボコ・シモコと発音するのに合う。
シボコという名は『魏書倭人章』の伊都国の副官名
「泄謨觚=シボコ・シモコ」 に一致するから、実在は疑いない。
これは官名であって個人名ではないから幾人もの泄謨觚がいる。
帯方郡使が記録した時期は<卑弥呼>がすでに老女になってからで、
夫の<天推彦>はとっくの昔に死んでしまっているが、彼が生前に、
この同じ官名を
もっていたから、天推彦や天日矛と呼ばれていたことは間違いないとわかる。
夫妻の名乗りは同じでなければならないから、その官名があったから、その妻だった
卑弥呼も下照姫と呼ばれていたとみると、下はシモに間違いないが、
照はテがつくから天の発音変化だと見るほかない。
薩摩・大隅語では、照るはテッかティである。
これに助詞の「ン」がつくとテンかティンになるから
「天」の当て字は不思議ではない。
このことで、天稚彦や天日矛は、アメチビコやアメノシボコではなくて、
テンチビコ・テンシボコだったのだと確認できる。
この稚国 (ワカ)をワカと読むと稚国玉はワカタマで、
これはアカタマと聴く人 のいる名である。
下照姫の下もシモと読むとシロと紛らわしいから、
白玉という表現に変わった可能性がある。
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天稚彦は天日矛と同じ名で当て字が違うだけ
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:12頁
《天稚彦は天日矛と同じ名で当て字が違うだけ》
《天稚彦は天日矛と同じ名で当て字が違うだけ》
⑦ だとすると、これには、まだバリエーションがある。
『天稚彦物語』である。
天椎彦は『日本書紀』の「神代の下の一」によると、<瓊瓊杵>(ニニギ)の命を
<葦原中国>の主とするために、<高天原>から先発隊として派遣されたが、
中国の顕国玉の娘・<下照姫>(別名=高姫・稚国玉)と結婚して任務を放棄してしまう。
そこで<高皇産霊の尊>が様子を見に無名雉を派遣すると、天推彦は矢で射殺してしまう。
その矢は<高皇産霊の尊>のところまで飛んでいったので、尊が投げ返すと、
それは稚彦の胸に命中して死ぬ。
<下照姫>たちが泣いていると、
中国で知り合った稚彦の親友・味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)の神が弔問にくる。
それが稚彦そっくりに見えたので、姫たちが「稚彦が生き返った!」と騒ぐ。
味耜高彦根はそれを「亡者扱いした」と怒って、
喪のために建てた小屋を「大葉刈」という太刀で切り倒す。
小屋は落ちて山になる。
それが美濃の国の喪山なのだ。
という話である。
この話の共通点は、まず名である。
天日矛の「日」には、<ヒ>と<シ>の発音があったが、「稚」を<チ>と読むと、
<シ>・<ジ>の大隅・沖縄発音になる。
私の姓の<加治木>も、地元では<カチキ>・<カチツ>と発音する。
<矛>は<日>を<ホ>とよむから<日子>を<ホコ>と 読んだものに、
<矛>や<槍>を当て字しただけである。
だから稚彦は絶対に<ワカヒコ>ではなく、
<チヒコ>、<シホコ>が語根なのである。
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