ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年11月26日土曜日
『記・紀』の書名が、誰が編纂者かの動かぬ証拠
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:28頁
《『記・紀』の書名が、誰が編纂者かの動かぬ証拠》
《『記・紀』の書名が、誰が編纂者かの動かぬ証拠》
H こう見てくると、誰がそんな無理な統一隠しを企てたか、よく見えてくる。
卑弥呼の影を消して、壹與を建国の女帝として顕彰したいのは、
壹與=嚇居世を初代とする新羅の故郷、
開聞(ひらきき)=枚聞(ひらきっ)を首都とした小国日本の王・
天命開別の専=金春秋=天智天皇以外にはない。
I なぜ『神功皇后紀』が、
卑弥呼と壹與の事跡をダブらせたものだったか、
これで非常によくわかる。
『日本書紀』は日本の始祖を、卑弥呼でなく壹與にしたかったのである。
J だから『日本書紀』は、
その書名がはっきり証明しているように、
日本王・天智天皇の企画した国史なのである。
かりに天武天皇が企画したのなら、書名に日本などとつけない。
『日本書紀』は間違いなく天智天皇が編纂させた
「日本国の国史」だったのだ。
だからこそ彼と対立した天武天皇は、
自選の国史に『古事記』という名をつけたのである。
そして国名も日本を避けて、全て『倭』にした。
対立は長く尾を引いていたことがわかる。
K これで、
『記・紀』とは何か?だけでなく、
『日本書紀』と『古事記』もまた「どんな書物か」わかった。
それは倭国と日本国の統一だけでなく、
それ以前の統一過程で合体した国々の王たちへの配慮も混じった、
非常に政治的な「作品」にせざるを得なかったのである。
「『記・紀』とは何か?」。
これがその答=『定義』である。
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