ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年11月24日木曜日
仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:26頁
《仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置》
《仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置》
次は、この定義が、どう役に立つのか?、例をあげて見てみよう。
A 高皇産霊の尊は神代の神ではなく、仲哀天皇を殺した熊襲である。
その時間帯はソナカの妻・卑弥呼の若い時の事件だから、
倭迩迩日百襲姫の父・孝霊天皇の時代である。
詳細は今後の研究が必要だが、
淡海三船がつけた漢風諡号が意味をもつとすれば、
孝霊は「高=皇+霊]を暗示しているから、
高皇産霊尊は孝霊天皇だった可能性が高い。
B これが違っていたとしても、
仲哀天皇がその「孝霊天皇と同時代の人」であることには変わりはない。
前記のソナカ関連の記事全部と『仲哀天皇紀』はすべて、
『孝霊天皇紀』と併記しなければウソになるのである。
C するとソナカが崇神天皇の時に来て、
垂仁天皇のときに帰ったというのもウソになる。
崇神天皇は孝霊天皇の曾孫になっているからだ。
D 『記・紀』は、
その仲哀天皇を、崇神天皇のそのまた曾孫・成務天皇の皇子だと書く。
なぜ?『仲哀天皇紀』は、
そんなに後へ行ってしまったのだろうか?。
それはご存じの通り卑弥呼と壹與の2人の事跡を、
1人の神功皇后にダブらせて編集してしまったので、
後世に大活躍した<壹與>の印象が強くて、
垂仁天皇より後へもって行かれたのである。
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