ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年11月7日月曜日
幾つもあるソナカの別名と、ミマナの語源
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:9頁
《幾つもあるソナカの別名と、ミマナの語源》
幾つもあるソナカの別名と、ミマナの語源
① このソナカヒコは、『崇神天皇紀』の最後の部分=崇神65年に、任那(みまな)国から
やってきた王子・<ソナカシチ>=<蘇那曷叱智>として出てくる。
<ソナカ>と<足仲>は同じだから、<シチ>と<ヒコ>の関係を考えると、
<ヒ>は大隅語で<シ>、<コ>は<木>の字を当て字すると<キ>と読まれ、
大隅語と沖縄語で<キ>は<チ>に変わる。
<彦>=<ヒコ>と<叱智>=<シチ>は、もともと同じもので、
当て字と発音差が生み出した変化にすぎないから、
蘇那曷叱智とは、仲哀天皇と全く同じ名をもった人なのである。
② この<ソナカ>は次の垂仁天皇2年に、
「任那へ帰りたい」と請願したという記事がある。
そしてその次の項の「一書」には、
「崇神天皇の御代に、額(ひたい)に角の生えた人が、越の国経由でやってきて、
「私は意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、別名を
<于斯岐阿利叱智干岐>(ウシキアリシチカンキ)といいます」と
名乗って3年いたが、国に帰るというので、垂仁天皇は。
御間城天皇を慕ってきたのだから、帰国したら御間城の名を国名にせよ。
といって赤い絹を与えた。
弥摩那(みまな)というのはそのためだ」と書いてある。
このことで<都怒我阿羅斯等>も、
<于斯岐阿利叱智干岐>も<ソナカ>の別名であり、
<任那>は<意富加羅国>と同じ国だとわかる。
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