ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年11月29日火曜日
卑弥呼を神功皇后にした2つの遺志
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録22:31頁
《卑弥呼を神功皇后にした2つの遺志》
《卑弥呼を神功皇后にした2つの遺志》
また若き卑弥呼の神功皇后としての活躍は朝鮮半島にも及んだ。
いわゆる三韓征伐である。
その事実を記録しているのが、息長帯姫という名乗りである。
息長はソナカへの当て字で、
帯は帯方郡、すなわち半島中部の帯状地帯をさす中国名だった。
そこは魏が景初に公孫氏を滅ぼすまでは、
漢政権の衰えで郡とは名のみの自治区であり、
公孫氏が税を懐に入れていた。
卑弥呼はそこを仏教圏にして実質的支配下に置いたのである。
それが可能だったのは彼女が、
高句麗まで支配していた孝霊天皇の皇女だったからで、
「三韓征伐」などという侵略行為があったわけではない。
そこの住民は稲作に適さず無人に近い土地を改良して、
次第に定着していった南九州からの移民だったのである。
それを立証しているのが半島南部の地名である。
下記の、伽耶時代の地名比較をご覧いただけば、
その史実は一目瞭然である。
こうして卑弥呼は海を越えて五彩圏を拡大した。
それはソナカ=仲哀天皇の遺志であると同時に、
アレクサンドロス大王の遺命だった
八紘一宇の実現でもあったのである。
卑弥呼が、
魏が極秘で進めた公孫氏抹殺作戦を事前に予知して
難升米らを派遣した事実も、
この五彩圏情報網の存在がわかれば、
偶然ではなかったことがわかる。
それは記録通り景初2年6月でなければ意味をなさない。
景初3年説は、無知を暴露しているだけなのである。
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