『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:7頁
この御鉏友耳建日子は吉備の臣らの先祖だとあるから、
吉備子はエビス、国を譲った大国主の皇子を意味している。
卑弥呼の男弟・伊都王の
泄謨觚柄渠觚はシモクァピンチュウクァ、
後世、下吉備津彦と当て字された人物、
『日本書紀』では卑弥呼に当たる倭迹迹日百襲姫の弟・
彦五十狭芹彦(イッサンキン=戦さの君)、
別名・大吉備津彦がその人だ。
南九州人の東征と本州併合は、
『記・紀』の書く神武東征説話とは異なって、
移動の規模も大きく、また長期間を要したが、
吉備津彦神社を始めとする多くの遺跡・遺物から、
それが史実であったことは、
国名の移動拡大と分布の様相から、疑問の余地なく理解できる。
卑弥呼時代の首都だった巴利国(ハリマ)が、
移動して播磨(ハリマ)に発展した時、
それに隣りあう吉備の国を領したのは大吉備津彦の子孫たちで、
その領土は備前・備中・備後で、岡山県と広島県とを合わせた広大な地域だった。
これが真の「鉏友東征」の中身であり、
播磨と吉備の誕生が卑弥呼の死後であることは確実だから、
懿徳天皇は後世人だという「時代差」を明確に示している。
だがそれを神武東征として神武記中に編入したから、
本当の実体である鉏友も懿徳天皇として欠史系譜に名を連ねた。
神武天皇が
阿岐(安芸)の多祁理(タケリ)の宮と
吉備の高島の宮に合計15年もの長期間
滞在したというのは、この吉備平定の真相を伝えているのである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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