出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
158~160頁
ここで魏志の原文を御覧戴きたい。
「始度一海千余里至対馬国」
「又<南>渡一海千余里名曰瀚海至一大国」
「又渡一海千余里至末盧国」
となっている。
<対馬>から<一大>へ渡るのを特に南と指示している
(他の二つは方向の指示はない)。
この<一大>が後の<壱岐>であることは明瞭だが、
それではこの南はオカしいということになる。
対馬北端の現在の上対馬あたりからなら南であるが、
当時の小船を考えると島の沿岸伝いに<南端>へ来てから
海峡を横断したはずだというのである。
これなら東南行であって南とはいえない。
というのがこれまでの説の大半を占めている。
そして、これを理由に、魏志の方位はあてにならないとして、
末慮以後の方角を論者に都合のいいように
勝手に変更してしまったのである。
だからここの南の一字は、以後の方向決定に
重大な意味をもっている。
この<南端>からという意見は至極合理的であるから、
北端からだったと逃げをうたずに、
この問題を解決する必要がある。
この問題の重点は従来の邪馬臺論者が、
見落すことのできない大きな要素を考えることも
できなかったところにある。
それはわざわざ陳寿らが特記した
<瀚海>すなわち<玄海灘>の激しい潮の流れである。
この海峡は黒潮の分流対馬(つしま)海流が北東へ流れ、
<対馬>と<壱岐>によって
狭められた上に海峡は最深部でも80mと浅くなっている。
ちょうど水道のホースの筒先をつまむと
水が勢いを増して噴き出す原理と同じで、
流速は加わり、水流は複雑になって荒れ狂う海域なのである。
陳寿は「瀚海」の二字を明示しておけば、
当然これ位いのことはだれにでもわかると考えていたのである。
これを乗り切るためには目標へ真っ直ぐ進んだのでは、
北東へ流されてしまう。
図でおわかりのように船は<真南>へ進めねばならないのである。
当時の人々はピタゴラスの定理以前に
体験でこのことを知っており、
真南へ進むのが常識だったのである。
なぜなら<対馬>と<壱岐>の人々は南北に市糴して、
数千戸の人口を養う米や穀物をこの荒海を乗り切って
運んでいたことを忘れてはならない。
このことは当時の船がかなりの大船であり
帆船であったことを示唆している。
数万の人口を養うには当時の乏しい食生活を
計算に入れても米に換算して
年一万石をこえる穀物が運ばれたことになる。
丸木船で手漕ぎでほ、とうてい不可能な数字だからである。
またこの海流の平均流速約4kmを考えても、
重量物を載せて手漕ぎで渡海することは不可能である。
平水面で瞬間的に
時速10km以上出せるとしても50kmの荒海を乗り切る場合には、
波浪によるオールのロスと肉体疲労を考えれば、
自分自身を運ぶだけがやっとであるという計算になるからである。
「図:「南行」とピタゴラスの定理」(加治木原図)
だからこの海峡横断は風力の利用なくしてはあり得なかった。
市糴自体、一年に一回の収穫時のもので、
現代のように年中無休の米屋があったわけではない。
大量の塩干魚や千若芽(ほしワカメ)などを積んで行って、
米や粟と交換して帰る時期は限られた一ケ月程であった。
その間に一万石前後を運ぶということは、
から荷で自身を運ぶのがやっとの手漕船ではなかったことを
証明しているし、
また卑弥呼の遣使のうち年月がしるされているものは
一度だけだが、
それが六月であったことも季節風を利用しての北渡で
あったことを証明している。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
0 件のコメント:
コメントを投稿