2010年6月4日金曜日

渡海とピタゴラスの定理(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    158~160頁

 ここで魏志の原文を御覧戴きたい。

 「始度一海千余里至対馬国」

 「又<南>渡一海千余里名曰瀚海至一大国」

 「又渡一海千余里至末盧国」

 となっている。

 <対馬>から<一大>へ渡るのを特に南と指示している

 (他の二つは方向の指示はない)。

 この<一大>が後の<壱岐>であることは明瞭だが、

 それではこの南はオカしいということになる。

 対馬北端の現在の上対馬あたりからなら南であるが、

 当時の小船を考えると島の沿岸伝いに<南端>へ来てから

 海峡を横断したはずだというのである。

 これなら東南行であって南とはいえない。

 というのがこれまでの説の大半を占めている。

 そして、これを理由に、魏志の方位はあてにならないとして、

 末慮以後の方角を論者に都合のいいように

 勝手に変更してしまったのである。

 だからここの南の一字は、以後の方向決定に

 重大な意味をもっている。

 この<南端>からという意見は至極合理的であるから、

 北端からだったと逃げをうたずに、

 この問題を解決する必要がある。

 この問題の重点は従来の邪馬臺論者が、

 見落すことのできない大きな要素を考えることも

 できなかったところにある。

 それはわざわざ陳寿らが特記した

 <瀚海>すなわち<玄海灘>の激しい潮の流れである。

 この海峡は黒潮の分流対馬(つしま)海流が北東へ流れ、

 <対馬>と<壱岐>によって

 狭められた上に海峡は最深部でも80mと浅くなっている。

 ちょうど水道のホースの筒先をつまむと

 水が勢いを増して噴き出す原理と同じで、

 流速は加わり、水流は複雑になって荒れ狂う海域なのである。

 陳寿は「瀚海」の二字を明示しておけば、

 当然これ位いのことはだれにでもわかると考えていたのである。

 これを乗り切るためには目標へ真っ直ぐ進んだのでは、

 北東へ流されてしまう。

 図でおわかりのように船は<真南>へ進めねばならないのである。

 当時の人々はピタゴラスの定理以前に

 体験でこのことを知っており、

 真南へ進むのが常識だったのである。

 なぜなら<対馬>と<壱岐>の人々は南北に市糴して、

 数千戸の人口を養う米や穀物をこの荒海を乗り切って

 運んでいたことを忘れてはならない。

 このことは当時の船がかなりの大船であり

 帆船であったことを示唆している。

 数万の人口を養うには当時の乏しい食生活を

 計算に入れても米に換算して

 年一万石をこえる穀物が運ばれたことになる。

 丸木船で手漕ぎでほ、とうてい不可能な数字だからである。

 またこの海流の平均流速約4kmを考えても、

 重量物を載せて手漕ぎで渡海することは不可能である。

 平水面で瞬間的に

 時速10km以上出せるとしても50kmの荒海を乗り切る場合には、

 波浪によるオールのロスと肉体疲労を考えれば、

 自分自身を運ぶだけがやっとであるという計算になるからである。

 「図:「南行」とピタゴラスの定理」(加治木原図)

 だからこの海峡横断は風力の利用なくしてはあり得なかった。

 市糴自体、一年に一回の収穫時のもので、

 現代のように年中無休の米屋があったわけではない。

 大量の塩干魚や千若芽(ほしワカメ)などを積んで行って、

 米や粟と交換して帰る時期は限られた一ケ月程であった。

 その間に一万石前後を運ぶということは、

 から荷で自身を運ぶのがやっとの手漕船ではなかったことを

 証明しているし、

 また卑弥呼の遣使のうち年月がしるされているものは

 一度だけだが、

 それが六月であったことも季節風を利用しての北渡で

 あったことを証明している。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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