『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:18頁
讃・珍と同じく、これもまたパーリ語なのである。
Konta コンタとは旗や幡の類をいう。
八幡も8つの旗を意味するから、
まさしく<コンタ>を漢字に意訳したものだったのである。
しかしその八は何のためについているのだろう?。
すでに詳しくお話ししたように、
彼の都はいまの隼人町(鹿児島県姶良町)にあった。
そこは卑弥呼時代の<巴利国>である。
この<巴利国>はそのまま<ハリマ>と読めるから、
淡路と一緒に兵庫県に移動したことが一と目でわかる。
<ハリマ>への当て字は<播磨>である。
<幡>も<播>も漢字音は<バン>だから幡の代わりに播の字を使うと八播で、
これはパハリと読める。
日本語の古音は母音に<h音>を加える。
戦前までの振り仮名を見ると、
<悔いをクヒ>、<箒をハフキ>、<お前をオマヘ>と書いた。
これは南九州語にいまも強く残っている発音で、高千穂という地名も、
その南九州語では武内宿祢を指す武内(タカチ)=タカチオーに一致する。
これは他の記録にもよく合うので、正解であり史実だとわかっている。
だから南九州では<パーリ>は<パハリ>なのである。
八幡とは、この<パハリ>を<八播>と書いたものが先に生まれたが、
後にそれと応神の名のコンタが複合して、
旗の意味の幡のほうが専用されるようになっただけで、
もとは<八播>で、その遺物が今の<播磨>なのである。
これで<応神>はなぜ<八幡>と呼ばれるのか?という
過去の大きな謎は完全に解け、
答えは完全に揃った。
『参考』
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
0 件のコメント:
コメントを投稿