『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:9頁
これで<珍・津名>の地名と名乗りが、
遠い南海から出発したことがわかる。
そこから一気に淡路まで進出したとは考えられないから、
珍の名は世襲で、
それぞれの地域には別の支配者がいたと考えるのが正しい。
藩のような封建的分治が行なわれていた証拠である。
それは<天神社>の数が多いことでも立証されている。
全国にある<天神社>は、
今ではほとんど全てが<菅原道真>が祭神だということになっているが、
道真が死んでから天神社が創建されたのではなく、
道真の崇りを恐れた<藤原系政権>が、
当時はどんな神が祭られているのか不明になっていた天神社に、
道真の怨霊を封じ込めたために、
道真が天神様だということになった経緯は有名な話である。
この時の天神社は京都市上京区の北野天満宮で、
正式名は北野神社である。
62代・村上天皇の天暦元年のことだから、
平安時代にはもう天神様の正体は誰も知らなかったのである。
いま私がお話しするまでは……。
そして僅かに<志筑神社>だけが<国幣社>として
『延喜式』に掲載されていた。
その延喜3年に道真は筑紫で病死したのだから、
<志筑>と<筑紫>は一見よく似ているが、
<志筑>のほうが道真よりも古くから存在していて、
道真とは無関係だと立証している。
こうした場合、名の類似だけで判断しがちだが、
これは「それはいけない」という警告にもなっているのである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
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