『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録09:16頁
話題を本題に戻そう。
こうして<讃と珍>の名がともにパーリ語で、
<兎のササ>と<天柱のツナ>であり、
それが沖縄方言化した<チヌ>だったことがわかると、
次の倭王・済にとりかかる前に、
讃と珍の父・応神天皇の問題を解決しておかねばならない。
なぜなら戦後、唯物史観学者が
応神天皇とそれ以前を虚構だと独断で義務教育から
抹殺してしまっているからである。
このことは本講では関連があるたび繰り返し取り上げてきたが、
パーリ語との検証はまだだった。
それをここで最終的にお話しして、
応神天皇の実在を立証する決定的な総括にしよう。
『日本書記』には天皇の身体に、
矢の容器の鞆=ホムタのようなコブがあるので、
<ホムタワケ>と呼ぶ解説があるし、
『古事記』は<品陀天皇>と書いて<ホンダ天皇>と読ませている。
だが大阪府羽曳野(はびきの)市誉田(こんだ)の天皇の陵は
<誉田>と書いて<コンダ陵>と読むし、
そこにあって天皇を祭る社の名も<
誉田八幡>と書いて<コンダハチマン>と発音する。
どちらが正しいのだろうか?。
<コ>と<ホ>の関係は<カ行>と<ハ行>の違いで、
<韓国>を<カン国>といい<ハン国>という違いに等しいから、
<コンダ>は我が国型の発音で
<ホンダ>は朝鮮語型の発音である。
だから『記・紀』が
半島からの帰化人によって書かれたという説は、
この天皇名への当て字差をみれば正しいようにみえる。
これを基準にする限りでは、
<品陀>と当て字した<太の安萬侶>は半島出身だった可能性がある。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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