『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:23・24頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
石虎の后は劉曜の娘である。
晋書によると、15人の息子がいて、互いに殺し合ったり、
石虎の死後の反乱で全滅したと書かれている
(陳舜臣「中国の歴史(三)」講談社学術文庫)が、
娘のことは出ていないようである
(石虎に娘がいたという記録はない、ということになる)。
「故国原王は335年には遼東の撫順市郊外に新城を築き、
342年2月に鴨緑江中流の北に国内城(遼寧省集安県)を築いた。
また8月には国内城近くの丸都城に遷都するなど、
高句麗は『石虎をバックに』、
じりじりと遼東に勢力を伸ばしてきていた…」とある(p118小林「4C」)。
石虎と故国原王の同盟関係(婚姻関係でもある)が推察出来る部分である。
H系図によれば、石虎の娘と故国原王は「またいとこ」になる。
さて、「山王山古墳」「網浜茶臼山古墳」「湊茶臼山古墳」の古墳名について考察すると、
山王=邪馬・王で、これはおよそ「スサノオ」の別称である。
位宮は「山上王」である(邪馬のお上)
(㊟鹿児島県隼人町の「高屋山上陵」が位宮の墓━加治木先生)、
美川王墓のある「四御神」は「死の神(エンマ)」という意味がふくまれていた。
H系図であきらかなように、美川王と「武」は位宮(スサノオ、邪馬、エンマ)の
子孫(孫と曾孫)である。
網浜は阿爾(兮)国(バ、ハ、マ)(阿爾王の国という意味)、
湊は弥奴(ミナ)・投(ト=投馬)になる。
H系図の玉彦姫の別名姪「岡陋姫」は
「崗(遠賀)水門姫」の意味だから、ミナト=水門=遠賀でもある。
HH系図の武内宿祢の先祖を逆上ると菅韓多羅に至る。
菅韓多羅B系図によると阿爾兮の娘であるから、
彼ら(子孫)はだれ一人として例外なく、
「阿爾兮(アミ・キ=アジ之岐)」ということになる。
菅韓多羅の夫大筒木垂根ま「三野前(弥奴国)国造」であることは、
もう少し別の系譜解明の部分で扱う方が便利なので、ここでは保留にする。
その子孫の墓の名の中に「弥奴国投馬国、遠賀水門」の名乗りが含まれていて、
それが美川王の墓の周辺にあるということは、
美川王━その娘(その夫武内宿祢)━石川宿祢の系譜の蓋然性を強めるのである。
故国原王と五十琴(近肖古王)、
伊呂弗(仲哀天皇)との間には、
互いに攻略しあう因果関係がある。
大筒木垂根の妹(の一人)は時姫であるから、
両者の子孫系簿を並立させて眺めてみる。
「系図I」
4 5 6 7 8 9
|大筒木垂根━息長帯姫∥_|咄固 ━美川王━故国原王━小獣林王
位宮 ∥
|時姫 ━汾西 ━ 胆咋 ━五十琴━伊呂弗∥ |真椋(枕=枕崎)
|玉彦姫∥_|布都久留
|多遅麻
この図の
五十琴=近肖古王、
伊呂弗=仲哀天皇、
玉彦姫=神功皇后、
布都久留=応神天皇、
多遅麻=近仇首王(武内宿祢)
として、このあたりの略年表を見つめてみる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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