2010年3月1日月曜日

日本古代王族の婚姻系譜(17)(18)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:23・24頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 石虎の后は劉曜の娘である。

 晋書によると、15人の息子がいて、互いに殺し合ったり、

 石虎の死後の反乱で全滅したと書かれている

 (陳舜臣「中国の歴史(三)」講談社学術文庫)が、

 娘のことは出ていないようである

 (石虎に娘がいたという記録はない、ということになる)。

 「故国原王は335年には遼東の撫順市郊外に新城を築き、

 342年2月に鴨緑江中流の北に国内城(遼寧省集安県)を築いた。

 また8月には国内城近くの丸都城に遷都するなど、

 高句麗は『石虎をバックに』、

 じりじりと遼東に勢力を伸ばしてきていた…」とある(p118小林「4C」)。

 石虎と故国原王の同盟関係(婚姻関係でもある)が推察出来る部分である。

 H系図によれば、石虎の娘と故国原王は「またいとこ」になる。

 さて、「山王山古墳」「網浜茶臼山古墳」「湊茶臼山古墳」の古墳名について考察すると、

 山王=邪馬・王で、これはおよそ「スサノオ」の別称である。

 位宮は「山上王」である(邪馬のお上)

 (㊟鹿児島県隼人町の「高屋山上陵」が位宮の墓━加治木先生)、

 美川王墓のある「四御神」は「死の神(エンマ)」という意味がふくまれていた。

 H系図であきらかなように、美川王と「武」は位宮(スサノオ、邪馬、エンマ)の

 子孫(孫と曾孫)である。

 網浜は阿爾(兮)国(バ、ハ、マ)(阿爾王の国という意味)、

 湊は弥奴(ミナ)・投(ト=投馬)になる。

 H系図の玉彦姫の別名姪「岡陋姫」は

 「崗(遠賀)水門姫」の意味だから、ミナト=水門=遠賀でもある。

 HH系図の武内宿祢の先祖を逆上ると菅韓多羅に至る。

 菅韓多羅B系図によると阿爾兮の娘であるから、

 彼ら(子孫)はだれ一人として例外なく、

 「阿爾兮(アミ・キ=アジ之岐)」ということになる。

 菅韓多羅の夫大筒木垂根ま「三野前(弥奴国)国造」であることは、

 もう少し別の系譜解明の部分で扱う方が便利なので、ここでは保留にする。

 その子孫の墓の名の中に「弥奴国投馬国、遠賀水門」の名乗りが含まれていて、

 それが美川王の墓の周辺にあるということは、

 美川王━その娘(その夫武内宿祢)━石川宿祢の系譜の蓋然性を強めるのである。

 故国原王と五十琴(近肖古王)、
 
 伊呂弗(仲哀天皇)との間には、

 互いに攻略しあう因果関係がある。

 大筒木垂根の妹(の一人)は時姫であるから、

 両者の子孫系簿を並立させて眺めてみる。

 「系図I」

   4       5     6    7    8    9    

 |大筒木垂根━息長帯姫∥_|咄固 ━美川王━故国原王━小獣林王
        位宮  ∥ 
 |時姫   ━汾西   ━ 胆咋 ━五十琴━伊呂弗∥ |真椋(枕=枕崎)
                      |玉彦姫∥_|布都久留
                      |多遅麻

 この図の

 五十琴=近肖古王、

 伊呂弗=仲哀天皇、

 玉彦姫=神功皇后、

 布都久留=応神天皇、

 多遅麻=近仇首王(武内宿祢)


 として、このあたりの略年表を見つめてみる。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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