ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2010年3月18日木曜日
日本古代王族の婚姻系譜(41)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:25頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
「五十跡手の言語復原」
五十=イソ=磯=磯城=隼人町、五島列島。イト=恰土郡(現在の前原市)、
跡=ト=投(馬国)、アト=アタ=吾田、手=タ=立岩
(伊万里湾の沿岸部にも立岩という地名がある)。
354年から362年、伊呂弗
(その妃玉彦姫の別名岡陋オカヤ姫=遠賀水門の支配者で
両者の子は「竺志連」「鍛冶師連」とある)
と故国原王(五十跡手)は、
「崗水門」の領有をめぐって激突したのであるから、
そこはどちらにとっても要衝の地だった
(当然といえばあまりにも当然だが)。
こうした最終的な戦闘行為を回避する手段として
領有権の分有ということがあるはずだが、
譲れない事情があると、生死を賭けての対決になる。
「布都久留の鹿児島王朝」
4 布都久留の鹿児島王朝、カゴサカ・オシクマ皇子は鷲住王の息子
百済13代近肖古王(五十琴宿祢)の長男は伊呂弗で、
蓋婁王の娘玉彦姫との間に真椋、洛、飯豊青の三人の子がいた。
真椋はマクラ=枕で、鹿児島県の枕崎である。
玉彦姫の兄多遅麻連公の后は安姫で、
安姫は五十琴の妹五十琴姫(弟姫)の娘であり、
父は五十功彦である。
多遅麻には玉彦姫の他に、もう一人の妹(中姫=可足渾)がいた。
さて、伊呂弗にも妹がいた…と前提(想定)して、
これらの人物の周辺の系譜を作成する。
その前に、履中6年2月の系譜の意味を解明しておくと、
実にスバラシイ発見が出来る。
それは次のようになっている。
鮒磯(ふなし)別王━|鷲住王 (履中天皇の妃の太姫郎姫は鮒磯別王の
|太姫郎姫∥ 娘で、鷲住王の妹だ…。)
履中天皇∥
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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