ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2010年3月16日火曜日
日本古代王族の婚姻系譜(39)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:23頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
「人物史が読み取れる「人名」」
父美川王が放棄して逃亡した肥前を、
息子の故国原王が回復(奪還)していたということになる。
なお、大筒木垂根の別名屋主忍男武雄心命の中に
「武雄=武雄市」がふくまれていることは前稿(「七支刀」)でもみておいた。
勢力は消長するし、人は情勢によって激しく移動する。人名は、
単に領地を示す(名乗り)だけでなく、注意して考察すると
(その人物の別の記録の解釈も加味するなどして)その人物の行動
(何処から何処へ)が見えてくることが少なくない。
吉備(岡山県)の開拓はどこからみても、王族の系譜の範囲でいうなら、
既に抜奇(卑弥呼の弟)の代から始まっていた(2世紀末)ようである
(「抜奇勢力出雲上陸」参照)。
318年、半島で慕容傀に敗退した美川王は、姫島(国東半島の沖合)、
安芸宮島を通過して(山口県でイツツヒコに妨害されている)、
抜奇の子孫の己婁王(陳元達)や蓋婁王(陳安)が
居住していた地(現在の総社市一帯)の隣地(東岡山市一帯?)を譲ってもらって、
終の棲家に定めたのだった、という図式になる。
同族のよしみがあったからこそのことである。
おつぼ山遺跡は318年以前に築造されていた、ということになる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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