2010年3月16日火曜日

日本古代王族の婚姻系譜(39)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:23頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「人物史が読み取れる「人名」」


 父美川王が放棄して逃亡した肥前を、


 息子の故国原王が回復(奪還)していたということになる。


 なお、大筒木垂根の別名屋主忍男武雄心命の中に


 「武雄=武雄市」がふくまれていることは前稿(「七支刀」)でもみておいた。


 勢力は消長するし、人は情勢によって激しく移動する。人名は、


 単に領地を示す(名乗り)だけでなく、注意して考察すると


 (その人物の別の記録の解釈も加味するなどして)その人物の行動


 (何処から何処へ)が見えてくることが少なくない。


 吉備(岡山県)の開拓はどこからみても、王族の系譜の範囲でいうなら、


 既に抜奇(卑弥呼の弟)の代から始まっていた(2世紀末)ようである


 (「抜奇勢力出雲上陸」参照)。


 318年、半島で慕容傀に敗退した美川王は、姫島(国東半島の沖合)、


 安芸宮島を通過して(山口県でイツツヒコに妨害されている)、


 抜奇の子孫の己婁王(陳元達)や蓋婁王(陳安)が


 居住していた地(現在の総社市一帯)の隣地(東岡山市一帯?)を譲ってもらって、
 
 終の棲家に定めたのだった、という図式になる。


 同族のよしみがあったからこそのことである。


 おつぼ山遺跡は318年以前に築造されていた、ということになる。


『参考』


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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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