『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:4頁
過去にはこの点について深刻に考えた学者はいないが、
その理由は、『崇神天皇紀』にある『四道将軍』と、
千葉あたりまで遠征したように見える
「日本武尊」の記事で充分だと思い込んでいたためである。
しかし北陸へ行った四道将軍の一人・大彦と東海へ行ったその子の武渟名川別らは、
崇神天皇10年の10月22日に出発して、翌11年の4月に帰る。
この期間は5か月。
広大な国土を占領した具体的な戦闘状況も成果も、ぜんぜん書いてない。
『神武天皇紀』の小さな地域の村長たちとの戦闘に手こずった長々とした記事に比べると、
とてもこれが東国と北陸を平定した大戦争の記録記事だとは信じられない。
そればかりではない。
日本武尊の東国遠征も神武的大勝利、大併合には至らずに、
最後は供(とも)すら連れずに、
孤影悄然(こえいしょうぜん)として
伊吹(イブキ)山(滋賀県)で哀れな死に方をしたと
書かれている。
そんなことで東国は併合どころか、
日本武尊時代でも滋賀県以東はまだ領土外だったと、
この記事で『日本書紀』自身が立証しているのである。
この真相はすでに本講で解明済みのとおり、
四道将軍も日本武尊も、
東国どころか本州の事件でさえなく、九州以東には出ていない。
東国が大和朝廷の支配下に入ったのは天智天皇が滋賀県に大津京を開いた
7世紀以後のことであって、それ以前ではありえない。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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