『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:31・32・33・34頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
3 北九州列石遺跡(おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定
美川王は肥前王で、美川王の祖母息長帯姫(壹與)が
久留米市とかかわりのある女性=倭女王であることは、
次の二つの説
話が残されていて、疑いようがない。
「万葉緯所引逸文風土記」
八小男八少女等、比(ここ)にこぞり逢いてイスス樹キ接(まじ)はりき
(p135山上伊豆母「神話の原像」岩崎美術社)
「住吉大社神代記」
…そこで、垂仁天皇の皇后は八大夫(やおとこ)と
八美女をひきつれてみずから神主となり、
神をまつった(p146谷川健一「白鳥伝鋭」集英社)
前者は歌垣(豊穣予祝の儀礼)のことだろうが、
後者は
「(この説話の舞台どなっている)八女県の藤山というのは今日、
久留米市郊外の藤山に比定されている」
とあるように、場所は久留米市である。
垂仁天皇は位宮で、位宮の妃は狭穂姫(初小の母)、
弟苅羽田=狭穂姫の妹(磐衝姫=播磨稲日大郎女の母)、
壹與(咄固の母)の三人で、
このうち壹與は「イスス」
(伊勢の、五十鈴《川》)とかかわりのある別名を持っている女性
(前の文は五十鈴川の川の名の縁起)である。
壹與は254年ごろ沖縄で咄固を産んだ
(咄固は儒礼王=首里王、284~298)。
晋書武帝妃泰始二年(266年)と、
同書四夷蛮伝・倭人条の「泰始初め、使いを遣わし、
訳を重ねて入貢す」とあるのは、壹與の献使とされている。
この年(266年)壹與は32歳位で、宗教家として成熟していく年齢に該当する。
咄固は12歳である。
咄固はトン(カラ)コで、トンカラコといえばトンカラリンだ(玉名市にある遺跡)、
玉名市の近くには菊池市や菊池川がある。
咄固の息子の美川王は肥前王の名乗りであるから(肥前は長崎県、佐賀県)、
美川王の出生はその周辺一帯のどこかであろう…。
だから咄固の妃は菊池姫で、
八女津姫の別名を持つ高田姫の妹にあたる女性ではないか…などと、
微かな手掛かりを頻りにして、
記録のない女性を復原した次第である(「七支刀」)。
本稿ではD系図のように修正したが、
これも文献的史料があってのことではないから、
読者への申し訳なさと、自分自身へや恥ずかしさとで充満している。
誰も、信用してかかる(認める)必要はないのであって、
僕もそれを(認めてもらえる)期待しているわけではない。
ただ、咄固の妃のおよその世代関係だけは、正しく修正されたものと確信している。
「D系図再掲」
4 5 6 7
難升米∥_|多婁王∥_|己婁王
中日女∥ 清姫∥ |菊池姫∥ |美川王
|高田姫∥ 咄固 ∥
烏越 ∥_|慕容傀
『参考』
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
古代史の画像
0 件のコメント:
コメントを投稿