2010年3月4日木曜日

日本古代王族の婚姻系譜(25)(26)(27)(28)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:31・32・33・34頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

3 北九州列石遺跡(おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定

美川王は肥前王で、美川王の祖母息長帯姫(壹與)が

久留米市とかかわりのある女性=倭女王であることは、

次の二つの説
話が残されていて、疑いようがない。

「万葉緯所引逸文風土記」

八小男八少女等、比(ここ)にこぞり逢いてイスス樹キ接(まじ)はりき

(p135山上伊豆母「神話の原像」岩崎美術社)

「住吉大社神代記」

…そこで、垂仁天皇の皇后は八大夫(やおとこ)と

八美女をひきつれてみずから神主となり、

神をまつった(p146谷川健一「白鳥伝鋭」集英社)

前者は歌垣(豊穣予祝の儀礼)のことだろうが、

後者は

「(この説話の舞台どなっている)八女県の藤山というのは今日、

久留米市郊外の藤山に比定されている」

とあるように、場所は久留米市である。

垂仁天皇は位宮で、位宮の妃は狭穂姫(初小の母)、

弟苅羽田=狭穂姫の妹(磐衝姫=播磨稲日大郎女の母)、

壹與(咄固の母)の三人で、

このうち壹與は「イスス」

(伊勢の、五十鈴《川》)とかかわりのある別名を持っている女性

(前の文は五十鈴川の川の名の縁起)である。

壹與は254年ごろ沖縄で咄固を産んだ

(咄固は儒礼王=首里王、284~298)。

晋書武帝妃泰始二年(266年)と、

同書四夷蛮伝・倭人条の「泰始初め、使いを遣わし、

訳を重ねて入貢す」とあるのは、壹與の献使とされている。

この年(266年)壹與は32歳位で、宗教家として成熟していく年齢に該当する。

咄固は12歳である。

咄固はトン(カラ)コで、トンカラコといえばトンカラリンだ(玉名市にある遺跡)、

玉名市の近くには菊池市や菊池川がある。

咄固の息子の美川王は肥前王の名乗りであるから(肥前は長崎県、佐賀県)、

美川王の出生はその周辺一帯のどこかであろう…。

だから咄固の妃は菊池姫で、

八女津姫の別名を持つ高田姫の妹にあたる女性ではないか…などと、

微かな手掛かりを頻りにして、

記録のない女性を復原した次第である(「七支刀」)。

本稿ではD系図のように修正したが、

これも文献的史料があってのことではないから、

読者への申し訳なさと、自分自身へや恥ずかしさとで充満している。

誰も、信用してかかる(認める)必要はないのであって、

僕もそれを(認めてもらえる)期待しているわけではない。

ただ、咄固の妃のおよその世代関係だけは、正しく修正されたものと確信している。

「D系図再掲」

4      5     6     7

難升米∥_|多婁王∥_|己婁王
中日女∥   清姫∥ |菊池姫∥ |美川王 
|高田姫∥  咄固 ∥
烏越 ∥_|慕容傀

『参考』

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