2010年3月29日月曜日

『国生み』の伊弊諾(イザナギの)尊は履中天皇

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:8頁

神武東征が紀元前後の実在者だとすれば、

5世紀にそこへ攻め込んで領主になった倭王・武(雄略天皇)は

神武天皇皇朝を滅ぼした敵になる。

万世一系どころではない。

しかし『記・紀』は、この大阪湾を越えて大阪に入った状況を、

皇祖の『国生み』として象徴的に記録している。

だから神武天皇は『国生み』をした

伊弊諾(イサナキ)尊・伊弉冉(イサナミ)尊2神の子孫で、

5世紀より後の人なのである。

神話時代がまずあって、

その次に神武東征があって、

その後に倭の五王の仁徳天皇時代がある。

と思いこんでいたのでは、日本の建国史はまるで理解できない。

『国生み』の舞台は淡路島である。

仁徳天皇は大鶺鷯(オホサザキ)(オホ=阿波、ササキ=讃岐)で、

その皇子・履中天鼻は去来穂(イザホ)別・伊邪本(イザホ)和気。

この名を分析してみると、

「伊弊(サフ)」は「イサフ」が本来のフリ仮名だから、

沖縄語のイザフを関西語でイザホと読んだものにビタリと一致する。

伊弊(サフ)と去来穂(イザホ)・伊邪本(イザホ)は同じものなのである。

すると伊邪本和気は「イザフンワケ」からさらに、

フンの「ン」と「和」重なって「ナ」になるから、

最後の「ギ」は「気」と発音したものだとわかる。

「伊弊諾(イザフナギ)」は

「伊邪本和気(イザフナギ)」と全く同じもので、

伊弊諾(イサナキ)尊とは実在した履中天鼻のことだったのだ。

すると仁徳天皇の次に立った皇子履中が淡路島を取り、

そこを拠点に対岸の茅沼(チヌ)に上陸して、

本州に第一歩をしるしたのは史実だったとわかる。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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