ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2010年3月9日火曜日
日本古代王族の婚姻系譜(32)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:16頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
「神篭石=山城説の決め手・おつぼ山遺跡」
これらの文中にある「土塁」は7世紀後半に、
別の目的(強制的奴隷労働=奈良の亀石施設と
その周辺の大土木工事と機を一にしたもの)に
よって行われた工事で、
エネルギーを消耗させるためだけの工事(労働のための労働)である。
一例だけ上げると、おつぼ山の何番目かの水門は比較的小規模であるが、
美しいものである(芸術的印象を受ける)が、
それでさえもスッポリと土塁で覆い隠されていたものを、
(昭和36年に?)土塁を除いて水門が見えるようにしている部分がある。
これだけでもいえることは、列石遺跡築造の時期に、
土塁は存在していなかったことがわかる、
ということである。
日の前に美しい水門が見えていて、
そこからトウトウと水が流れ落ちていてこそ、
水門施設築造の目的に適うのだから、
ことさらそれを土塁で覆い隠す必要はないし、
もし山城施設用の水門なのであれば、
それは単なる排水施故でさえあれば十分なのであって、
なにも芸術牲を志向する必要性は皆無である(実用牲だけが意味をもつ)。
巨大な鬼城や御所が谷遺跡ならまだしも(山城か杏か吟味する値打ちがある)、
一番低平なおつぼ山や、鹿毛馬、永納山遺跡を「山城跡」と判定するのは、
およそ合理的な知性の範疇を逸脱している、としかいいようがない。
列石施設築造時期には、土塁は無関係と考察する必要がある
(頭の中で土塁を消去して、もとの施故をイメージする)。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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