2010年3月5日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜(27)(28)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:33・34頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 咄固の出生と成育の記録が「常陸国風土記那賀郡茨城の里条」である。


 咄固は日増しに母の手に負えないくらい成長していったと書いてある。


 家来を欲したが、母と伯父(息長日子王)は無力で、


 付け人を付けてやることも出来なかった。


 母が甕を投げたので天に昇れなかった(沖縄に帰ることが出来なかった)と、


 咄固が死んだ時のことまで(愛媛県の雉之尾古墳に埋葬された)書いてある。


 常陸国の風土記だから沖縄は無関係だと素人のような判断を下して、


 それ以上の追及をやめるような者は、古代史研究に不向きな人に属する。


 咄固の父は位宮であって、位宮が古事記、


 日本書紀の神武天皇(の一人)であることは間違いないのだから、


 神武天皇は間違いなく実在する。


 ただ、位宮はその生存期間が限定されるから、


 紀元前7世紀に即位したのでないことは間違いない。


 神武天皇段には天武天皇の事跡が投影されている、


 というのが「学会の常識」である。


 他にも多くの神武天皇(のモデル)が含まれているというのが、


 古事記神武天皇、日本書紀神武天皇段の結論ということになる。


 そのモデルと彼の事跡を、


 限り無く一人残さず、


 一つ残さず鮮明していくのが古代史学であり、


 古代史解明に従事する者の役割である。


 「神武天皇は架空(の人物)である、これは歴史学の常識である


 (某年しんぶん赤旗の『絹』記者)」などというのは、


 「記紀神武天皇」の解明に従事する者への政治介入になるのではないだろうか。
 
 加治木義博先生のKKロングセラーズ社シリーズは、


 ある面で「記紀神武天皇」段の解明の著書であるから、


 少なくとも入手通読の手間隙をかけるぐらいは、


 「神武天皇に言及する」記者としての最低限の礼儀というものではなかろうか。


 例えば「卑弥呼を攻めた神武天皇」にはこういう解明がある。


 その日こそ、私たち日本人が、


 「建国記念の日」として、尊重しようとしている日なのだから、


 ここでいい加減に見通ごしてしまっては、なにもならない。


 国家主義だとか帝国主義だとか、


 皇国史観だとか唯物史観だとかいう看板は、


 それを商売に利用している連中だけの問題で、


 私たち大多数の日本人にとって迷惑な前世紀の遺物でしかない。


 そんなものとは無関係に、純粋に日本という国の一つの出発点になった、


 この「グレート・エポック」について知らない日本人は、


 「文化人」の中に入る資格がないことは確かだ。
 
 それは一体いっなのだろう。                      


 だからここできっちりと、


 この「大発見l」について正確に記憶しておいてほしい。


 それは[西暦241年1月1日]=


 「魏の少帝・芳の正始二年・辛酉(しんゆう)の春・更辰(こうしん)の朔の日(ついたち)」


 である。(p37)。


 以下の文章は各自で読んでいただくしかないが、


 一言だけ付け加えるなら(おそれおおいことであるが)


 この日付は個々の人の主義や主観で左右することが出来ない


 「真理」であるということである。


『参考』


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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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