2010年3月3日水曜日

日本古代王族の婚姻系譜(22)(23)(24)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:28・29・30頁

 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

 掖邪狗(拘)は正しくは(?)

 「ヨーナ・ジャナ・公」で、このジャ「ナ」とジャ「ロ」は

 同じ「~の」という意味の助詞にあたる。

 この助詞はあってもなくても同じだから、

 石勒はジャナクのナがロに変化したもので、

 石虎のジャコはナ、ロの部分が省かれたものだと、

 音韻学的には説明がつく。

 「ソヤロ」「ソウジャロ」「ソヤナー」「ソウジャナー」「ソヤソヤ」という

 俗会話を持ち出すと、少しは理解の足しになるかもしれない。

 しかし、人の会話(発音)の場合はそうであるとしても、

 人の名として記録される場合には、

 勒には琉球(の支配者だった)、という名乗りも含まれたものであって、

 石虎も人為的に選択された当て字であることに気付く必要がある。

 この文字を教えたのは倭人(列島人)側であった、とだけは言えそうである。

 劉淵、劉聡、劉曜の場合も淵はフチ、フヂで葛(フジ)、百済(フジ)、聡は襲王(ソウ)、

 曜はヨース、余氏、尾久島の名乗りを持っていて、彼らの生地や故地、出身地を示している。

 曜の場合で言えば、哀邪本王の王子の妃は星久島で曜を生んだことになるから、

 屋久島と関わりのある女性だったのであ
る。

 「系図J」

   3    4       5        6

     _|末仇2 ━  末仇3 ━    末仇4(扶余王玄)∥
 |末仇∥         蜂上王   ∥ |石城別
  休礼∥        |哀邪本嬢  ∥_|高奴子
 |味鄒∥_|哀部本王∥_|哀邪本皇子 ∥ |サホ姫      ∥
  光明∥  玉姫  ∥          |水歯郎女(五十香彦の妃)
      |室比古王∥  屋久島の女性∥__|劉曜
       張氏  ∥_|劉聡(四男)
 

 E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、次のようになる。

  2         3     4    5

 仇道(剄頚) ∥ |末仇∥_|末仇2 ━末仇3
   (伊声耆) _ 休礼∥      (比流王)304~344
 息長水依姫  ∥ |味鄒∥ |室比古王∥
           光明∥  張氏  ∥_|劉曜(四男)

 僕の「ホケノ山古墳の被葬者特定」という論考の中で、

 味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵であることは解明してあるから、

 陳舜臣前掲書p384に「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、献帝の東帰を援け、

 その居住地は中原からごく近いところだったのです」と

 ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。

 オフロはオフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)である。

 仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である(仇道━臣濆姑━烏越)。

 どちらから見ても合うものは、それが真実の系着であることの証拠である。

 ギリシャ人である伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子はやはりギリシャ人である。

 この人種の名は、後のオホド大公王(継体天
皇)になって復活(?する。

 オホド=オホロ=オフロ=イフロ(意はイとオの南方の発音を持っている)=

 ギリシャ(人)になるからである。

 劉淵は大航海王味鄒の息子で、彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、

 彼は三世紀未に沿海州で人望を得て、

 ついに皇帝になった(漢)=304~310年病没。

 沿海州で人望を得た、彼は航海王(大商人=海商)というのなら、

 南九州、瀬戸内海のみならず、日本海沿岸と半島、大陸を航海(交易)していたのである。

 2002年1月12日各紙の報道は紙面の大きさと内容面の両面において、

 実に濃淡の差があって、尽きない興味をそそられるものであったが、

 その報道とは、石川県七尾市の「万行(まんぎょう)遺跡」に関してであった。

 「ヤマト政権の支配がはやくも及んでいた」という

 パターン通り(共同配信?)の解説の他に、

 「ヤマトとは異なる独自の勢力が、

  朝鮮半島から日本列島へ放射状に伸びる交易ルートのうちの

  一つを担っていたのではないか」

 (山尾幸久・毎日新聞)などのコメントが掲載されていた。

 報道の通り「三世妃未~四世紀始め(の倉庫群跡)」の年代が正しいものならば、

 どう考えてもこの時期、

 この地域を航行していたのは室比古王(劉淵)たちの商船、軍船である

 (劉淵は名前が確認される彼ら豪族連合の一代表者にすぎない)。

 劉淵の父は畿内、大和に移住していて、

 息子の室比古王も瀬戸内海を航海したから、

 ヤマトと無縁ではないが、どうみても、

 彼、(室比古王)がヤマト政潅の代表者だったと

 位置付けるわけにはいかないではないか。

 彼が大和政権なら、彼が「大陸で皇帝に推される」筈はない。

 「ヤマトとは異なる独自の勢力」の表現の方が正しいのだと思う。

 また、味鄒も大和政権ではない。

 「方位は北極星を基準にした真北に沿っており」

 「高度な測量、設計技術がうかがえる」とあり、

 天御中主(金味鄒)の息
子の宗教観を反映している。

 室比古王は若狭の耳別の祖であり、

 若狭は秦氏の居住が濃厚に確認される地域である。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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