2010年3月31日水曜日

パリー語から派生した当て字「磤馭盧(インギーラ)」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:10頁

これでおわかりの通り、

この履中天皇の本土上陸が、

後の大和朝廷誕生の第一歩だったのである。

だから大阪湾での国生みが語られ、

淡路島が我が国最初の州と書かれ、

そこで伊弊諾尊・伊弉冉尊が

国々と神々を生んだというのに少しもウソはない。

それだけでなく、

彼等がどこから来たどんな信仰の持主だったかまでわかる。

それは淡路島の別名だとされてきた磤馭盧島の真相が、

従来の説はとんでもない誤解だったとわかったからである。

従来は、

この磤馭盧島を「オノゴロジマ」と読んで、島の名だと信じてきた。

それは海の塩水が乾燥して固まるように、

島が自然に固まってできたという意味だと信じ、

『古事記』の当て字

『己碁呂(オノゴロ)島』が正しいと信じて疑わなかったからだ。

しかし古代人ならそんなお伽話を真に受けるが、

いま伊弊諾尊の実体が履中天皇だとわかると、

潮が自然に凝り固まって島ができたと信じて済ますことはできない。

では磤馭盧とは何のことなのであろうか?。

いま明石大橋で地続きになった対岸は播磨(ハリマ)、巴利国の後身だ。

パーリ語にinda khila インダキラという言葉がある。

これと磤馭盧を比べてみると、磤はイン。

盧は末廬=松浦(マツラ)だからラ。

前後は完全に一致している。

馭(ギョ)はキをチと発音する沖縄語が、

daki をヂュと訛ったものを、

『日本書紀』編者がヂュは

本州語のギョだと解釈して当てた当て字なのである。

『参考』

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2010年3月30日火曜日

神話は歴史だったという数々の証拠

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:9頁

これでなぜ?、淡路島に伊弊諾神宮があるのか?、

またその祭神は実在者なのか架空の神にすぎないのか?、

実在者ならそれは誰か?といった複数の謎に、動かない答が確立した。

ところがそれでもまだ謎が残る。

それは履中天皇が伊弊諾尊だったのなら、なぜ?、

宋に送った手紙に「珍」と署名したのであろうか?。

彼が上表したのは、仁徳天皇が死んで位を継いだ時である。

まだ対岸の茅沼は占領していないはずだ。

だから「珍」は正確には茅沼ではない。

いま淡路島の地名をみると「津名郡」という大きな地域があって、

伊弊諾神宮がある一宮町もその中に入っているが、

中心は「津名町」で島都の洲本市に隣接している。

この「津名」は今の発音では「ツナ」であるが、

沖縄発音だと「チン」、まさに「珍」の漢音とピタリと一致する。

これで履中天皇が宋に上表した当時は、淡路島暗いたこと、

これには今も津名町に「王子」という地名が残るので、

その居住地が今の津名町にまで絞れること、

その後、対岸の大阪府を占領したために、

そこが茅沼という国名をもったこと、これにも津名町と、対岸の大阪府に、

ともに「佐野」という地名が残ること。

この「サノ」の名は神武天皇の幼名にも「狭野(サノの)尊」というのがあり、

これが神武東征を大阪府から奈良への侵入だとした

混乱の謎を解くカギになると考えていい。

『参考』

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2010年3月29日月曜日

『国生み』の伊弊諾(イザナギの)尊は履中天皇

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:8頁

神武東征が紀元前後の実在者だとすれば、

5世紀にそこへ攻め込んで領主になった倭王・武(雄略天皇)は

神武天皇皇朝を滅ぼした敵になる。

万世一系どころではない。

しかし『記・紀』は、この大阪湾を越えて大阪に入った状況を、

皇祖の『国生み』として象徴的に記録している。

だから神武天皇は『国生み』をした

伊弊諾(イサナキ)尊・伊弉冉(イサナミ)尊2神の子孫で、

5世紀より後の人なのである。

神話時代がまずあって、

その次に神武東征があって、

その後に倭の五王の仁徳天皇時代がある。

と思いこんでいたのでは、日本の建国史はまるで理解できない。

『国生み』の舞台は淡路島である。

仁徳天皇は大鶺鷯(オホサザキ)(オホ=阿波、ササキ=讃岐)で、

その皇子・履中天鼻は去来穂(イザホ)別・伊邪本(イザホ)和気。

この名を分析してみると、

「伊弊(サフ)」は「イサフ」が本来のフリ仮名だから、

沖縄語のイザフを関西語でイザホと読んだものにビタリと一致する。

伊弊(サフ)と去来穂(イザホ)・伊邪本(イザホ)は同じものなのである。

すると伊邪本和気は「イザフンワケ」からさらに、

フンの「ン」と「和」重なって「ナ」になるから、

最後の「ギ」は「気」と発音したものだとわかる。

「伊弊諾(イザフナギ)」は

「伊邪本和気(イザフナギ)」と全く同じもので、

伊弊諾(イサナキ)尊とは実在した履中天鼻のことだったのだ。

すると仁徳天皇の次に立った皇子履中が淡路島を取り、

そこを拠点に対岸の茅沼(チヌ)に上陸して、

本州に第一歩をしるしたのは史実だったとわかる。

『参考』

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2010年3月28日日曜日

五王の「倭」が九州発、四国経由で奈良へ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:7頁

この『隋書』と『唐書』に先立つ『宋書』を見ると、

通称『倭の五王』と呼ばれた王たちが君臨していて、

仁徳天皇以下の5帝だったことは、

もう疑いの余地がない。

彼等が自称した『名乗り』のトップは『倭』で、

これを従来のように日本列島全域のことだとすると、

続く百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓は、全て朝鮮半島の国々なのだから、

これも引っ括(くる)めて『朝鮮』または『韓』と表現しなければならないのに、

小国名を羅列していることになる。

この矛盾に気づくとこの「倭」は日本列島全域などではなく、

百済・新羅と同格の国名にすぎないとわかる。

なぜなら彼等は自ら「六国または七国諸軍事と自称しているが、

それは倭を他の諸国と同列に扱っている。

倭がかりに日本列島全域なら、

そこには首済・新羅クラスの酢は数十あるから、

「数十国諸軍事」と書いたはずなのだ。

しかもその倭は「奈良」のことでもなく彼等の本国、

大倭之国(うわしま)=宇和島を首都としていた四国地方だったことが、

続く中国正史『隋書』『唐書』の記事で完全にわかるのである。

また彼等が今の個人名のように使う名は

最も新しい占領国名で、

仁徳天皇の「讃」は讃岐。

履中天皇の「珍」は茅沼(チヌ)のことで、珍の時、

ようやく大阪湾を超えて大阪南帝を入手したという事実が鮮明にわかる。

奈良県へは最後の武による高市(タヶシ)(後の高市(たかいち))奪取が最初なのだ。

『参考』

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2010年3月27日土曜日

動かぬ証拠は『隋書』『唐書』の記録

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:6頁

実はそれについては本講ですでにお話しした。

天智天皇(新羅王・金春秋〉が唐の援軍を背景に倒した倭国大阪政権が、

東方に大移動するためには、

そこに住んでいる先住民を追い払わなければならない。

神武東征記事どころではない屍山血河(しざ
けつが)の戦いが、

その行く先ざきで繰り返され占領地には勝者の国名がつけられて、

敗者の旧国名は消されてしまった。


それが今なおビッシリと地名として残っているから、

私たちの言語復原史学によって、

史実を眼に見るように復元できるが、

これらの事件とは無関係だった大和朝廷の記録・

『日本書紀』以後の正史や史料には、

そんな前政権・倭国の戦争については
まるで記載がない。

わずかに『風土記』に片鱗が見られるものがあるが、

それも大和新政権の方針で改悪されて、

前記の日本武尊物語のようなものになっていて、

史実を混乱させる役目しか果たしていない。

しかし明治以降、

大和朝廷を「神格化」する教育がおこなわれ、

それに毒された教育者が強制した授業を受けた戦前派の学者たちは、

以上の事実を認めようとはしない。

その追随者が今なお居るとすれば、

彼等は『隋書』や『唐書』が全然理解できていないのである。

『隋書』の俀(ダイ)国の首都は四国の西端・宇和島をはっきり指しているし、

『唐書』の大国・倭(ワ)国は四国全域を表示している。

とても近畿以東、関東・北陸・東北地方を含むサイズではない。

『参考』

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2010年3月26日金曜日

欠史のままの東国征服戦争

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:5頁

それも大和朝廷軍が、大規模な軍事行動によって支配圏を拡大したのではない。

ちょうど、卑弥呼が魏の勢威を恐れて、

協力を告げる使者・難升米らを派遣したように、

大和朝廷の支配潅が確立するにつれて帰属を申し入れる地域支配者が増加し、

いっか東国全域が支配下に入ったという形になっている。

しかしこれは大和朝定が政権として安定した後のことである。

それ以前の不安定な時期に、

関東以北まで近畿の政権に隷属(れいぞく)していたとは考えられない。

現実の人間世界では広大な地域が、

平穏に他の勢力に征服されるということはありえない。

それは人間を国境を超越して平等に見ようとする現代でも、

アフリカ各地や、パレスチナ、ユーゴスラビア、チモールにみるように

深刻な対立と戦闘がともなう。

他国人を鬼と恐れ、思想がより野獣に近かった古代には、

広域を統治することは難しかった。

それは後世の戦国時代、

それを何とか統一した江戸時代をみてもよくわかる。

だから東国は自発的に隷属したのではない。

やはり西方勢力に征服されたのである。

現実には神武東征どころではない大騒乱があったのである。

それが大和朝廷の記録に欠けているのは、

7世紀前後のその大争乱が

大和朝廷以外の者の手で行なわれたからにほかならない。

それは一体?だれが行なった征服戦争で、どんなものだったのか?。

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2010年3月25日木曜日

大和朝廷の東国支配は7世紀以後

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:4頁

過去にはこの点について深刻に考えた学者はいないが、

その理由は、『崇神天皇紀』にある『四道将軍』と、

千葉あたりまで遠征したように見える

「日本武尊」の記事で充分だと思い込んでいたためである。

しかし北陸へ行った四道将軍の一人・大彦と東海へ行ったその子の武渟名川別らは、

崇神天皇10年の10月22日に出発して、翌11年の4月に帰る。

この期間は5か月。

広大な国土を占領した具体的な戦闘状況も成果も、ぜんぜん書いてない。

『神武天皇紀』の小さな地域の村長たちとの戦闘に手こずった長々とした記事に比べると、

とてもこれが東国と北陸を平定した大戦争の記録記事だとは信じられない。

そればかりではない。

日本武尊の東国遠征も神武的大勝利、大併合には至らずに、

最後は供(とも)すら連れずに、

孤影悄然(こえいしょうぜん)として

伊吹(イブキ)山(滋賀県)で哀れな死に方をしたと

書かれている。

そんなことで東国は併合どころか、

日本武尊時代でも滋賀県以東はまだ領土外だったと、

この記事で『日本書紀』自身が立証しているのである。

この真相はすでに本講で解明済みのとおり、

四道将軍も日本武尊も、

東国どころか本州の事件でさえなく、九州以東には出ていない。

東国が大和朝廷の支配下に入ったのは天智天皇が滋賀県に大津京を開いた

7世紀以後のことであって、それ以前ではありえない。

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2010年3月24日水曜日

謎に満ちた無記録の奈良以東の征服は?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:3頁

『記・紀』の建国史の冒頭にある「神武天皇東征」は、

よくみると奈良という一小地域を占拠したというだけのものでしかない。

ところがそれが『神武建国』として特筆大書されているのである。

この点に注意すると、幾つもの疑問が沸き上がってくる。

まずそこが当時なら特筆されていい大文明地域だったはずの

「銅鐸文化圏」、

だったことについて、『神武紀』は一言半句も触れていない。

そこには進んだ青銅工業技術と、

銅鐸絵画が立証する水稲稲作技術の先進性や、

それをどこからか運んできた人々の言語や風俗、

信仰などの大きなちがいがあったはずなのに、

それがまるで書かれていない。

そこに記録されたものは、

会話ひとつにしても通訳を必要としない同族間のものである。

ところが建国後2千年、国民が流動して混じりあい、

明治以来、

統一国家としての標準語教育が浸透している現在でも、

南九州と奈良の言葉は互いに通じないほど異なっている。

しかしそれを無視しても、さらに納得できないのは、

山間の不毛の寒地にすぎない奈良を奪取したと、

最大級の誇りをもって描いているのなら、

それに比べて幾千倍もの広大な土地である奈良以東の関東圏から東北圏を、

領土に加えた大勝利の記事が、『記・紀』にはなぜ?ないのであろうか?。

それこそ神武東征に勝る『東征』だったはずなのに…?…。

『参考』

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2010年3月23日火曜日

日本古代王族の婚姻系譜(46)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:30頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

「裏返しの系譜も完全一致 史実確認の一手法」

但し、この系図は上のパターンと少し違うではないか、と、不満として、

この裏返しの系図を求めてみると、完全に一致する系図が得られる。

「系図P」

紛西 _|胆咋      ∥_|五十琴    ∥_|伊呂弗
(景行天皇)   (彦人大兄王)   (大名方王)
比メ古  ∥  香児姫    ∥  |大中姫    ∥_|全能姫
(カグロ姫)     (銀王)        鷲住王    ∥  |カゴサカ皇子
                                                 (仲哀天皇)   |オシクマ皇子

鷲住王の妹も娘も、とにかく、

はらわたに染みる声を出して泣く女性だったと仁賢6年条に書いてあるから、

内礼=奈良姫(奈落=浄土=葬式に従事した女性)だったのである。

布都久留である枕流王は384、385年の在位だから、この頃、

苻洛は命もからがらに「枕崎に流れ着いた」

(「枕流」王の意味するところ)のである。

この頃、彼(苻洛=布都久留=応神天皇)の従兄弟にあたる

カゴサカ、オシクマ皇子がなんらかの事情があって

(「応神天皇の即位を妨げようとした」ということから類推)、

両者の間に攻防があったということで、結果的には布都久留が勝利した。

ここで僕が考察したいことの力点は、両者の攻防の内容や因果の究明にあるのではなく、

神功皇后が赤ん坊の応神天皇を連れて(武内宿弥がおんぶだか抱っこだかして)

近畿地方に攻め込んだ…という、多くの従来説のいい加減さについて、ということである。

『参考』

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2010年3月22日月曜日

日本古代王族の婚姻系譜(44)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:28頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

「蓋婁王に関連のある地名」

この蓋婁王と香児姫が兄妹であることは、前稿で既に確認している。

驚住王は驚羽山=岡山県、住は住之江(博多湾?)、

枕崎の真椋が「麦入」だとすると麦は妻木だから

都満・霧(之固)、入=入来(いれき)である。

「全能」はマッタクノだからマッタ(馬田、末羅)、

マッ(タ)クラ(ノ=ロ=ラ、no=ro=ra)=マクラ(=真椋)だから、

夫婦として同じ名前になるようになっている。

10代目の世代の石持連について、

右京諸蕃下に

「石野連は百済国人の近速古王(近肖古王)の孫憶頼福留(真掠に相当)の後也。

続紀天平宝字5年条百済人憶頼子老ら41人に石野連の姓を賜う、とあるから、

五十琴(近肖古王)-伊呂弗-真椋-石持連…石野連ということになり、

この系譜の信憑牲を証明する。

憶頼は巨椋と同じ

(京都伏見の巨椋池やマ・クラの倒置のクラ・マ=鞍馬寺の名とかかわりがある)である。

速古=ハヤ・フルで隼人町・夫余で、近肖古王の都が南九州だったことがわかる。

大前小前は御前(オマエ→ミサキ)と同じだから、

地御前(広島県。ジゴゼンと読むがチのオマエとも読める)、

赤穂岬(御前)、

河内の「お日の御前」(谷川前掲書)の地名は

彼らの進出地であることを示している。

岡山県和気郡日生町=日の御前(ヒのゴゼ→ヒのゼ→ヒなゼ→ヒなセ=ひなせ)→日生。

大前小前が日(種子島、豊前豊後)の神前(お上)だったのである。

赤穂は阿華・穂になる。

島根県日の岬(御崎)は多遅麻や伊呂弗は若狭まで進出していた

(小林「4C」)ことから類推できるのではないか。

『参考』

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2010年3月21日日曜日

日本古代王族の婚姻系譜(44)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:28頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

「蓋婁王に関連のある地名」

この蓋婁王と香児姫が兄妹であることは、前稿で既に確認している。

驚住王は驚羽山=岡山県、住は住之江(博多湾?)、

枕崎の真椋が「麦入」だとすると麦は妻木だから

都満・霧(之固)、入=入来(いれき)である。

「全能」はマッタクノだからマッタ(馬田、末羅)、

マッ(タ)クラ(ノ=ロ=ラ、no=ro=ra)=マクラ(=真椋)だから、

夫婦として同じ名前になるようになっている。

10代目の世代の石持連について、

右京諸蕃下に

「石野連は百済国人の近速古王(近肖古王)の孫憶頼福留(真掠に相当)の後也。

続紀天平宝字5年条百済人憶頼子老ら41人に石野連の姓を賜う、とあるから、

五十琴(近肖古王)-伊呂弗-真椋-石持連…石野連ということになり、

この系譜の信憑牲を証明する。

憶頼は巨椋と同じ

(京都伏見の巨椋池やマ・クラの倒置のクラ・マ=鞍馬寺の名とかかわりがある)である。

速古=ハヤ・フルで隼人町・夫余で、近肖古王の都が南九州だったことがわかる。

大前小前は御前(オマエ→ミサキ)と同じだから、

地御前(広島県。ジゴゼンと読むがチのオマエとも読める)、

赤穂岬(御前)、

河内の「お日の御前」(谷川前掲書)の地名は

彼らの進出地であることを示している。

岡山県和気郡日生町=日の御前(ヒのゴゼ→ヒのゼ→ヒなゼ→ヒなセ=ひなせ)→日生。

大前小前が日(種子島、豊前豊後)の神前(お上)だったのである。

赤穂は阿華・穂になる。

島根県日の岬(御崎)は多遅麻や伊呂弗は若狭まで進出していた

(小林「4C」)ことから類推できるのではないか。

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2010年3月20日土曜日

日本古代王族の婚姻系譜(43)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:27頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

天孫本紀の麦入宿祢(「畑井系図」では

伊呂弗の弟の位直にある《いる》)の妃は

全能姫で目古連の娘とある(p8畑井弘「新版物部氏の伝承」三一書房参照)。

この部分も世代関係を修正しないと、

全く意味不明で歴史を解明する役に立たない。

証明(修正の仕方は前稿(「七支刀」)の

五十功彦の部分と同じだから省略して、

真椋=麦入=伊呂弗の息子(長男)である。

これらの人物の相互の婚姻をを系図にすると次のようになる。

「多遅麻の系譜」

「系図N」

7           8     9     10

多遅麻∥ |山無姫
五十功彦∥_|安姫 ∥_|大別 ∥ |葦田
      |五十琴姫          福寿 ∥_|中磯姫
|鷲住王∥       |里姫
|戸田
香児姫∥ |娘  ∥ |カゴサカ皇子
(伊呂弗  |オシクマ皇子
の妹) |全能姫∥_|辞姫
|五十琴 ∥_|伊呂弗        |大前
|清姫  ∥      _|真椋 ∥ |小前
蓋婁王 ∥_|玉彦姫∥  (麦入) |石持
(陳安)
|中姫   |洛  ∥ |小事
|多遅麻   山無姫∥_(阿華王)
|木蓮子
|汝妹(多彼)

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2010年3月19日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜(42)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:26頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

「履中天皇は多遅麻」

これを論証抜きで解明すると、次のようである。

実は名前を入れ替えるだけで論証になっているのである。

「系図M」

7       8         9 

|五十琴
|五十琴姫 ∥
(弟姫)   |驚住王      応神天皇∥
五十功彦 ∥_|安姫    ∥_|山無姫 ∥
(本姫郎姫)   |大別
|清姫     ∥        |オナベ姫
蓋婁王(陳安)∥_|多遅麻 ∥
|中姫

このように、鮒磯別王=五十功彦に他ならない。

すると、

前稿(「七支刀」)で多遅麻が

百済14代近仇首王と解明しているから、

百済本紀にある近仇首王の男(しゅうと)の真高道は、

多遅麻の妃の父の五十功彦(=鮒磯別王)ということになる。

応神天鼻の妃の別名の一つは太姫であるから、

安姫(太姫郎姫)━太姫(山無姫)と、

母と娘が同じ部分(「太姫」)を含みもっていて、

天孫本紀は

「山無姫(太姫)は履中6年2月条の太姫郎姫(安姫)の娘なんだ、

その履中天皇は多遅麻のことなんだ、気付いてくれ」

といっているのである。

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2010年3月18日木曜日

日本古代王族の婚姻系譜(41)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:25頁


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 「五十跡手の言語復原」


 五十=イソ=磯=磯城=隼人町、五島列島。イト=恰土郡(現在の前原市)、


 跡=ト=投(馬国)、アト=アタ=吾田、手=タ=立岩


 (伊万里湾の沿岸部にも立岩という地名がある)。


 354年から362年、伊呂弗


(その妃玉彦姫の別名岡陋オカヤ姫=遠賀水門の支配者で


 両者の子は「竺志連」「鍛冶師連」とある)


 と故国原王(五十跡手)は、


 「崗水門」の領有をめぐって激突したのであるから、


 そこはどちらにとっても要衝の地だった


 (当然といえばあまりにも当然だが)。


 こうした最終的な戦闘行為を回避する手段として


 領有権の分有ということがあるはずだが、


 譲れない事情があると、生死を賭けての対決になる。


 「布都久留の鹿児島王朝」


 4 布都久留の鹿児島王朝、カゴサカ・オシクマ皇子は鷲住王の息子


 百済13代近肖古王(五十琴宿祢)の長男は伊呂弗で、


 蓋婁王の娘玉彦姫との間に真椋、洛、飯豊青の三人の子がいた。


 真椋はマクラ=枕で、鹿児島県の枕崎である。


 玉彦姫の兄多遅麻連公の后は安姫で、


 安姫は五十琴の妹五十琴姫(弟姫)の娘であり、


 父は五十功彦である。
 
 多遅麻には玉彦姫の他に、もう一人の妹(中姫=可足渾)がいた。


 さて、伊呂弗にも妹がいた…と前提(想定)して、


 これらの人物の周辺の系譜を作成する。


 その前に、履中6年2月の系譜の意味を解明しておくと、


 実にスバラシイ発見が出来る。


 それは次のようになっている。


 鮒磯(ふなし)別王━|鷲住王    (履中天皇の妃の太姫郎姫は鮒磯別王の
           |太姫郎姫∥   娘で、鷲住王の妹だ…。)
            履中天皇∥


『参考』


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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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2010年3月17日水曜日

日本古代王族の婚姻系譜(40)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:24頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「美川王と蓋婁王」


 美川王と蓋婁王との「同族のよしみ」を系図で確認すると、次のようになる。


 「系譜L」


   4        5      6     7


 |大筒木垂根  ━|息長日子王
 (息長宿祢王)  |壹與    ━咄固  ━美川王
           (息長帯姫)
 |中日女 ∥
  大新河 ∥  _|多婁王∥━|己婁王∥_|蓋婁王
           清姫 ∥  清姫 ∥


 美川王の父方の曾祖父と、蓋婁王の父方の曾祖母とは兄と妹の仲だったのである。


 この己婁王が陳元達、蓋婁王が陳安の別名であることは後にみる。


 なお、美川王の勢力は南廻りの有明海ルートと、西方廻りで伊万里市(伊万里湾)に


 抜ける陸のルートがあったろうことが、その地形と地名から考察出来ると思うが、


 詳細な吟味は今は別のテーマである。


『参考』


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2010年3月16日火曜日

日本古代王族の婚姻系譜(39)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:23頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「人物史が読み取れる「人名」」


 父美川王が放棄して逃亡した肥前を、


 息子の故国原王が回復(奪還)していたということになる。


 なお、大筒木垂根の別名屋主忍男武雄心命の中に


 「武雄=武雄市」がふくまれていることは前稿(「七支刀」)でもみておいた。


 勢力は消長するし、人は情勢によって激しく移動する。人名は、


 単に領地を示す(名乗り)だけでなく、注意して考察すると


 (その人物の別の記録の解釈も加味するなどして)その人物の行動


 (何処から何処へ)が見えてくることが少なくない。


 吉備(岡山県)の開拓はどこからみても、王族の系譜の範囲でいうなら、


 既に抜奇(卑弥呼の弟)の代から始まっていた(2世紀末)ようである


 (「抜奇勢力出雲上陸」参照)。


 318年、半島で慕容傀に敗退した美川王は、姫島(国東半島の沖合)、


 安芸宮島を通過して(山口県でイツツヒコに妨害されている)、


 抜奇の子孫の己婁王(陳元達)や蓋婁王(陳安)が


 居住していた地(現在の総社市一帯)の隣地(東岡山市一帯?)を譲ってもらって、
 
 終の棲家に定めたのだった、という図式になる。


 同族のよしみがあったからこそのことである。


 おつぼ山遺跡は318年以前に築造されていた、ということになる。


『参考』


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2010年3月15日月曜日

日本古代王族の婚姻系譜(38)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:22頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「イトと五十跡手と天の日槍系譜」


 肥前国風土記逸文に


 「高麗の国の意呂山に天から降ってきた日槍の末裔の五十跡手とは私のことです、


  といったところ、


  天皇はお前五十跡手の本拠地を恪勤(いそし)の国というがよいといったのが、


  訛って恰土の郡というようになった」というような意味のことが書いてある。
 
  恰土郡は今の前原市、旧糸島郡の糸郡である(この糸島郡《現前原市》は


  魏書倭人章の「伊都国」と誤解されていることで有名であるが、


  後の時代の地名を三世紀半ば当時のものと誤認したもので、


  倭人章の伊都国は佐賀市一帯である」が、


 「この恰土国は日槍の同族が建てた国」


 (浮田洋太郎「ヤマト国家成立の秘密」・新泉杜p77)と判定して間違いない。


  日槍の系譜はK系図を少し変えさえすれば、簡単に理解できる。
   
  2      3      4      5     6   7   8


 仇道 ∥_|臣潰沽 ∥_|菅韓多羅∥_|壹與∥_|咄固━美川王━故国原王
 公孫度∥  (清日子)  大筒木 ∥  位宮∥        (天日槍の
 の宗女   (天日槍)    垂根∥ (熊襲タケル)    末裔五十跡手)
       阿爾兮 ∥


 五十跡手が仲哀天皇に降伏したのは354年のことだが、


 362年になると逆に仲哀天皇(=五十琴の長子伊呂弗)を戦死させている


 (故国原王=熊襲、故国原王は熊毛郡=南九州《襲》と南西諸島の王)のである。


 (仲哀9年=362年、


 肥前国風土記逸文基肆郡姫杜郡粂=あらぶる神がいて道行く人を殺した=仲哀天皇戦死)


 (前掲文の同義反復)。


 降伏した時に既に恰土郡にいたのだから、そこは故国原王の領地だったことになる。


『参考』


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2010年3月14日日曜日

日本古代王族の婚姻系譜(37)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:21頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「列石施設築造は石氏の事業だったか?」


 息長日子王の妃附志は汾西の妹で、


 この汾西、附志はフシ=フジ=葛(フジとも読む)=百済


 (フシ?クダラは後の時代の発音)で、


 汾西の子孫(孫)の五十琴宿祢は


 第13代百済王(近肖古王346~375)と解明されるから、


 汾西も、その妹の夫息長日子王も間違いなく首済殿(ポセイドン)なのである。


 真浄ま百済本紀の近肖古王の立場から表現すると「朝廷佐平」であるが、


 前金官加羅国の立場でいうと、


 彼自身が前金官加羅国王=倭国王=倭帯(タラシ)=帯隈(山列石遺跡ということになる


 (前文の繰り返し)。


 美川王の妃の父は石勒で、石氏は羯族の長で、羯族の宗教はゾロアスター教だった


 (小林「4C」p215)とある。


 真浄の弟にあたる石虎は「大土木工事をおこすのを好んだ」(p400陳舜臣前掲書)。


 石虎が趙王を潜称したのが334年、没年は449年(後趙)だから、


 列石施改築造の企画立案や現場監督の任務についていたこともあったのではないか…という


 程度のところまでは、推理が出来る。


 同じ圏内の列石遺跡のうち、把木遺跡の把木は葉木、抜奇と同じだから、


 K系図を少し変更すると、


  2      3      4      5    6   7    8


 抜奇 ∥_|八坂王∥_|大筒木垂根∥_|息長 ━千熊 ━真浄 ━武内宿祢
 竹野姫∥  真敷 ∥  菅韓多羅 ∥  日子王 長彦 (把木)(把木)


 となって、


 把木遺跡は武内宿祢が築造者なのではないか、という推測も成立するが、


 今はおつぼ山、雷山、帯隈山遺跡の築造者推定だけで満足することにしたい。


『参考』


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2010年3月13日土曜日

日本古代王族の婚姻系譜(36)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:20頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「アンビトリテとポセイドンの系譜」


 同著は「有木」地名の分布を全国的に調査しているうちの一部分である。


 他に昭文社のエアリアマップで


 帯隈山列石遺跡周辺の地名を調べていると、


 筑紫郡に「網取」という地名がある。


 有木、有ノ木は阿爾(濔)今の音韻変化であり、網取も、


 ① 阿濔の棟梁(結局阿爾兮)、


 ② 奄美王、


 ③ アンビトリテの省略形
  (アマミはアンビトリテのアンビの音韻変化、


   アンビトリテはギリシャ神話のポセイドンの妻・


    加治木義博通信講座)、である


 (Ambitorite?Amitori)。


 有ノ木、網取の二つの地名は、どちらからみても次の系譜と重なっている。     、


 「系図K」


 2     3      4      5      6  7    8     9




 伊買∥_|阿爾兮∥_|菅韓多羅∥_|息長 ∥_|千熊━真浄 ━竹内宿祢━石川宿祢
 内礼∥  臣潰沽∥  大筒木垂∥  日子王   長彦(網取 )(網浜) (湊)
     (清日子)  根      附志∥
     (天日槍)        |壹與 ∥_|咄固━美川王━故国原王━伊集院王
                                      位宮  ∥         (天日鉾)
            中日女  ━ 多婁  ━ 己婁━蓋婁 ━岡陋姫 ━|山無
            時姫   ━ 汾西  ━ 胆咋━五十琴━伊呂弗 ━ 洛


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2010年3月12日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜(35)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:19頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

「帯隈山と倭王」

次は、帯隈山についてであるが、

結論としては真浄が築造者だったのではないか、

ということであるから、

真浄が倭王であることは間違いないといえる

(茶臼山の茶臼はチャンスン=男将軍?)。

加治木義博著「邪馬壹国の言葉」(コスモ出版)の中に

「尾=隈=倭=ウアイ」という部分がある

(p190)から、帯隈➩隈帯➩倭帯で倭王になる

(少なくともそういう意味が含まれているといえる)。

黒住秀男他共著「古代日本と海人」(大和書房)p159によると、

吉野ケ里に近い霊山金立山

(徐福伝承で名高い、帯隈山遺跡に近い)の西方約三キロ地点に

大和町「有ノ木」という地名がある。

そこは有明海から嘉瀬川をさかのぼったところ。

海人がきた可能性が大きい、とある。

『参考』

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2010年3月11日木曜日

日本古代王族の婚姻系譜(34)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:18頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「「国造り」=「よみがえり」世界観の象徴」


 どんな小さな国(邦)でも、新しく邦を始めるときには、


 その邦のシンボルとなるものを設定する


 (ヘソ石を据える、山中の岩を割る、小山を築く、杭を打つ、木を植えるなど)、


 あるいはそういう行為を為すのである。


 こういうものを築造して王の権威の高揚を図る(築造するだけの力量を誇示する)、


 あるいは国民意識の高揚の効能もあるであろう。


 いずれにしても、奴隷労働などではありえない、ということはいえる。


 立岩から割石一つ切り出すにしても、


 国民総動員で力を合わせて運搬したのである


 (総動員というのは直接間接という意味である。
 
 男はロープを引っ張り、女は食事をつくった《かどうかはわからないが》)。


 それが国造りというものだからである。


 ある時期(四世紀初頭~およそ前半)、ある集団にとっては、


 丘の中腹に列石施役の築造がそれに該当した、というだけのことである。


 それにしても、こんな大それた施設を軍事目的以外の目的で築くということは、


 相当に強く大きな、意識的、生産力(国力)的なインパクトがあったのに違いない。


 世界観の断裂があったと表現出来る程度のそれである。


『参考』


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2010年3月10日水曜日

日本古代王族の婚姻系譜(33)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:17頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「儀礼施設としての列石築造物」


 これら十数例の列石遺跡は全て数百年(三百数十年)の年代差を


 含み持つ複合遺跡なのである。


 施設築造の目的は、


 国立(建)(正確にどういう学術用語がよいのか僕には解らない)-


 我らが叢の象徴を造る(造った)ということだったのではないか、と考察する。


 列石は丘(又は小高い山)の中腹を上昇したり、下降したりして、


 低平面に降りているものもある(おつぼ山や鹿毛馬の場合)から、


 これは、必ずあの世(冥界)とこの世(現世)の境界(境目)を意図している。


 これらの施設が例外なく強調している水門、泉、門(城門などではない)、


 崩れ(混沌=カオス)、オンパロス(これら施設内邸には必ず象徴物がある)などは、


 全て宗教的、宇宙観、世界観、信仰的な意味でのよみがえり


 (=冥界を潜ってこの世に復帰する)の象徴である


 (この部分は「境界論」の専門家の領分である)。


 このことから、僕は当初、「王の即位のための施設」だったのではないか、


 との素人的直観的想定のもとに、観察、考察、研究を出発した。


 首尾よく完成の暁には、


 その築造者は必ずなにがしかの儀式儀礼を


 その施設を利用して行っていることは間違いないし、


 年々の儀式儀礼においても、王ただ一人だけだったか、


 あるいは国民も含めての集団がそうしたか否かは不明だとしても、


 更新儀礼施設としても利用された筈である。


 王が即位儀式をおこなう施設として築くこともありうるし、


 完成された施設を利用して即位儀礼か、


 あるいはなにがしかの更新儀礼かをおこなったこともありえるが、


 それよりも現実的な解釈は、「新しい国造り」もまた「よみがえり」であるから、


 こういうものを築造して、新しい国のシンボル(象徴)にしたのである。


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2010年3月9日火曜日

日本古代王族の婚姻系譜(32)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:16頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「神篭石=山城説の決め手・おつぼ山遺跡」


 これらの文中にある「土塁」は7世紀後半に、


 別の目的(強制的奴隷労働=奈良の亀石施設と


 その周辺の大土木工事と機を一にしたもの)に


 よって行われた工事で、


 エネルギーを消耗させるためだけの工事(労働のための労働)である。


 一例だけ上げると、おつぼ山の何番目かの水門は比較的小規模であるが、


 美しいものである(芸術的印象を受ける)が、


 それでさえもスッポリと土塁で覆い隠されていたものを、


 (昭和36年に?)土塁を除いて水門が見えるようにしている部分がある。


 これだけでもいえることは、列石遺跡築造の時期に、


 土塁は存在していなかったことがわかる、


 ということである。


 日の前に美しい水門が見えていて、


 そこからトウトウと水が流れ落ちていてこそ、


 水門施設築造の目的に適うのだから、


 ことさらそれを土塁で覆い隠す必要はないし、


 もし山城施設用の水門なのであれば、


 それは単なる排水施故でさえあれば十分なのであって、


 なにも芸術牲を志向する必要性は皆無である(実用牲だけが意味をもつ)。


 巨大な鬼城や御所が谷遺跡ならまだしも(山城か杏か吟味する値打ちがある)、


 一番低平なおつぼ山や、鹿毛馬、永納山遺跡を「山城跡」と判定するのは、


 およそ合理的な知性の範疇を逸脱している、としかいいようがない。


 列石施設築造時期には、土塁は無関係と考察する必要がある


 (頭の中で土塁を消去して、もとの施故をイメージする)。


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2010年3月8日月曜日

日本古代王族の婚姻系譜(31)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:15頁


出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


「列石遺跡と山城」


故国原王は前出のように335年、342年に城を築いた


(およそ岩で築く山城)という記録があり、


列石遺跡と半島の山城との類似性は、


その両方を観察した人が一様に表現しているから


(僕は半島の山城は本の写真を見るだけ)、


上のような相関関係になることが、初歩的ながらいえる。


おつぼ山列石遺跡は規模が最も小さく、最も素朴な印象がするから、


相対比較上(比較遺跡学的にいって)一番始めの築造物といえるのではないか。


それに、所在位置的にも一番西に位置している遺跡である。


築造目的(なんのために築造したのか、何を築造したのか)については、


おつぼ山に限らず、


ほとんどが山城説=山城として築いた


(あるいは、神域説は退けられて山城(跡)説に落ち着いた(結論になった)、


というものである。


この遺跡については「権威ある学説?」などというものは適用しないから


(僕も含めてあれこれいっているだけ)、


どのようにいわれているかを知るだけで十分なので、


二つだけ紹介する(ほかのものも大同小異である)(その部分だけ)。


「観光パンフレット(おつぼ山)」


昭和36年に発見されたとき、


水門、木柵を立てた穴、列石の上の土塁などが認められ、


神籠石を山城とする説の決め手となった。


石城山(山口県、大和町教育委員会)


昭和38、9年、国の文化財保護委員会と大和村との共同による発掘調査の結果、


従来知られていなかった空壕、桂穴、版築工法による大土塁が


数首メートルにわたり発見され、


神籠石式古代山城の一つであるといわれるようになった。


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2010年3月7日日曜日

日本古代王族の婚姻系譜(30)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:14頁

出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征

「壹與をとりまく仏教名と列石遺跡」

壹與は卑弥呼の宗教的後継予定者であったのであり、

血縁者でもある(卑弥呼や弟の曾孫)が、

シーラバッガ派(シンドー教の一派)の位宮の養女として

(加治木著書及び通信講座)、

女王に共立され、自らは天御中主(ビシュヌー教徒)になった。

三角縁神獣鏡は卑弥呼の好物(鏡)と、

シンドー(西王母東王父、神獣)教を

折衷した要素を表現したもの=ビシュヌー教徒を

意味しているのではないだろうか。

壹與は結果として卑弥呼の仏教倭国を排して(タタス《仏を去る?》)、

ビシュヌーの倭国女王として宗教的に成長した女性である、

という意味が含まれている。

おつぼ山列石遺跡のすぐ目の前の山が「立岩」である

(…使用された石材は安山岩質のもので、杵島山の各所で見られ、

おつぼ山に近い立岩付近がその石材採集加工地といわれている。

立岩は神籠石の北東約800mに位置し、

おつぼ山東側によく見える一武堆市教育委員会による掲示板より)。

以上から、以下の図式が得られそうである。


壹與     --咄固(儒礼王)- 美川王(肥前王)-故国原王

朴赫居世       (基臨王)  300~331  331~371

富登        岐(黄、気)  多多須      良伊(雷)

穂・投        霧(之国)  立の(立岩の)     

伊勢(伊須須)    

伊江島=依

壹国=依、姫木山          おつぼ山列石遺跡 雷山列石遺跡

『参考』

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2010年3月6日土曜日

日本古代王族の婚姻系譜(29)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:13頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 「ヒメをめぐる雑考」


 さて、記紀神武天皇といえば、古事記の皇后選定段に


 「富登多多良伊須須岐比売命亦の名は比売多多良伊須気余理比売」という名があり、


 続いて


 「七媛女(ななおとめ)…その中に伊須気余理比売ありき、ここに大久米命(が云々…)」


 という部分がある。


 「七媛女」といい「八少女、八美女」というのは、


 古代の「ウーマンズ(ウイーメンズ)ハウス」とかかわる表現であろう、


 七と八の意味の鮮明は省略(僕はまだ解明していない)、


 大久米は倭・久(留)米でもあるのではないか、


 などと乱暴(?)な解釈で通過するとして、


 富=穂(=種子島)、登=投(馬国)(十島村やトカラ列島)、


 多多良=立(辰)の国(種子島であり、


 また徳之島町手手、武堆市立岩〈山の名または山中のある箇所の名》)、


 良伊=雷(雷山列石遺跡)、伊須須=伊勢の=伊邪国(鹿児島県伊作都)、
 
 気=岐=霧(之国)、比売(「ヒメ」タタラ…の方のヒメ)=姫=


 姫木山(鹿鬼島県隼人町国分市の境)、


 余理=依=ユイ=イエ=伊江島、壹国=イエッマ


 (加治木先生通信講座・現在も進行中)、


 などの名乗りが復原されるから、


 これはあきらかに壹與の名乗りでもある


 (この部分はP133加治木義博「邪馬壹国の風雲」


 魏志倭人伝詳解2原語復元史学会参照)。
 
 もっと強くこだわると、


 富登=太=フツ=仏=仏教、多良=多羅=倭国、


 多多須=(タンバヒコ・タタス・道主王《御中主》)のタタスで、


 これは天御中主神の別称か?


 (アーガタは如来、タターガタは如去を意味するパーリ語という研究がある)。


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2010年3月5日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜(27)(28)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:33・34頁


 出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征


 咄固の出生と成育の記録が「常陸国風土記那賀郡茨城の里条」である。


 咄固は日増しに母の手に負えないくらい成長していったと書いてある。


 家来を欲したが、母と伯父(息長日子王)は無力で、


 付け人を付けてやることも出来なかった。


 母が甕を投げたので天に昇れなかった(沖縄に帰ることが出来なかった)と、


 咄固が死んだ時のことまで(愛媛県の雉之尾古墳に埋葬された)書いてある。


 常陸国の風土記だから沖縄は無関係だと素人のような判断を下して、


 それ以上の追及をやめるような者は、古代史研究に不向きな人に属する。


 咄固の父は位宮であって、位宮が古事記、


 日本書紀の神武天皇(の一人)であることは間違いないのだから、


 神武天皇は間違いなく実在する。


 ただ、位宮はその生存期間が限定されるから、


 紀元前7世紀に即位したのでないことは間違いない。


 神武天皇段には天武天皇の事跡が投影されている、


 というのが「学会の常識」である。


 他にも多くの神武天皇(のモデル)が含まれているというのが、


 古事記神武天皇、日本書紀神武天皇段の結論ということになる。


 そのモデルと彼の事跡を、


 限り無く一人残さず、


 一つ残さず鮮明していくのが古代史学であり、


 古代史解明に従事する者の役割である。


 「神武天皇は架空(の人物)である、これは歴史学の常識である


 (某年しんぶん赤旗の『絹』記者)」などというのは、


 「記紀神武天皇」の解明に従事する者への政治介入になるのではないだろうか。
 
 加治木義博先生のKKロングセラーズ社シリーズは、


 ある面で「記紀神武天皇」段の解明の著書であるから、


 少なくとも入手通読の手間隙をかけるぐらいは、


 「神武天皇に言及する」記者としての最低限の礼儀というものではなかろうか。


 例えば「卑弥呼を攻めた神武天皇」にはこういう解明がある。


 その日こそ、私たち日本人が、


 「建国記念の日」として、尊重しようとしている日なのだから、


 ここでいい加減に見通ごしてしまっては、なにもならない。


 国家主義だとか帝国主義だとか、


 皇国史観だとか唯物史観だとかいう看板は、


 それを商売に利用している連中だけの問題で、


 私たち大多数の日本人にとって迷惑な前世紀の遺物でしかない。


 そんなものとは無関係に、純粋に日本という国の一つの出発点になった、


 この「グレート・エポック」について知らない日本人は、


 「文化人」の中に入る資格がないことは確かだ。
 
 それは一体いっなのだろう。                      


 だからここできっちりと、


 この「大発見l」について正確に記憶しておいてほしい。


 それは[西暦241年1月1日]=


 「魏の少帝・芳の正始二年・辛酉(しんゆう)の春・更辰(こうしん)の朔の日(ついたち)」


 である。(p37)。


 以下の文章は各自で読んでいただくしかないが、


 一言だけ付け加えるなら(おそれおおいことであるが)


 この日付は個々の人の主義や主観で左右することが出来ない


 「真理」であるということである。


『参考』


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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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