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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:532頁
第十章 天毒とセリカ
漢書の海洋交易網(6)
(6)已程不国(黄支の南)
已程不(いていふ)と解釈すれば Egypt の音写と考えられる。
己程不(きていふ)ないし巳程不(していふ)と読めば
Kithem (旧約聖書創世記に出る) Sidon に対応し、
地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。
(7)皮宗(黄支から船で八ヶ月ほど)
アンチオキアから陸路で、紅海あるいはペルシャ湾に出て、
海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
紀元2世紀頃の主要海路は
紅海を経てローマとインド西海岸を結ぶものであった。
皮宗は当時のインド亜大陸東海岸の港町
Pishta-pura と考えられる。
現在の市名は Pitha-puran である。
紀元2世紀は後漢の時代である。
大秦王安敦
(ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
その献貢物品の内容から疑問も出されている)の
使節がやって来たのは西暦166年のことで、
東西の海路による交流が盛んになった時代である。
漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
航海に出たとの記述は重要である。
アンチオキアから陸路で、紅海あるいはペルシャ湾に出て、
海路船で東方へ向かう行程と考えられる。
紀元2世紀頃の主要海路は
紅海を経てローマとインド西海岸を結ぶものであった。
皮宗は当時のインド亜大陸東海岸の港町
Pishta-pura と考えられる。
現在の市名は Pitha-puran である。
紀元2世紀は後漢の時代である。
大秦王安敦
(ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、
その献貢物品の内容から疑問も出されている)の
使節がやって来たのは西暦166年のことで、
東西の海路による交流が盛んになった時代である。
漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて
航海に出たとの記述は重要である。
この地理志の西方に関する情報は、
後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が
かなり入って来ていたことを示すものである。
《Key Word》
漢書/地理誌/呉と越
漢書大宛列伝
「漢書」地理誌地名の比定
日南 :ベトナム北~中部
都元国 :シンハラ国(現スリランカ)の港 Dehiwala と考えられる。
邑盧没国 :インド亜大陸西海岸ムンバイ付近
湛離国 :Surat(紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。)
夫甘都盧国:ペルシャのぺルチア王国の首都 Hecatompylos
黄支国 :Antakya を指す。
紀元2世紀当時ローマ帝国の支配化にあった
Antiochiya
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
『参考』
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
アルパチア遺跡出土の碗形土器
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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