2014年3月5日水曜日

漢書の海洋交易網(6)


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 Matのジオログ

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:532頁

 第十章 天毒とセリカ

 漢書の海洋交易網(6)

 (6)已程不国(黄支の南)

  已程不(いていふ)と解釈すれば Egypt の音写と考えられる。

 己程不(きていふ)ないし巳程不(していふ)と読めば

 Kithem (旧約聖書創世記に出る) Sidon に対応し、

 地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。

 (7)皮宗(黄支から船で八ヶ月ほど)

  アンチオキアから陸路で、紅海あるいはペルシャ湾に出て、

 海路船で東方へ向かう行程と考えられる。

 紀元2世紀頃の主要海路は

 紅海を経てローマとインド西海岸を結ぶものであった。

 皮宗は当時のインド亜大陸東海岸の港町

 Pishta-pura と考えられる。

 現在の市名は Pitha-puran である。

 紀元2世紀は後漢の時代である。

 大秦王安敦

 (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、

  その献貢物品の内容から疑問も出されている)の

 使節がやって来たのは西暦166年のことで、

 東西の海路による交流が盛んになった時代である。

 漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて

 航海に出たとの記述は重要である。
 
  アンチオキアから陸路で、紅海あるいはペルシャ湾に出て、

 海路船で東方へ向かう行程と考えられる。

 紀元2世紀頃の主要海路は

 紅海を経てローマとインド西海岸を結ぶものであった。

 皮宗は当時のインド亜大陸東海岸の港町

 Pishta-pura と考えられる。

 現在の市名は Pitha-puran である。

 紀元2世紀は後漢の時代である。

 大秦王安敦

 (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、

  その献貢物品の内容から疑問も出されている)の

 使節がやって来たのは西暦166年のことで、

 東西の海路による交流が盛んになった時代である。

 漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて

 航海に出たとの記述は重要である。

  この地理志の西方に関する情報は、

 後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が

 かなり入って来ていたことを示すものである。

 《Key Word》

 漢書/地理誌/呉と越

 漢書大宛列伝

 「漢書」地理誌地名の比定

 日南   :ベトナム北~中部

 都元国  :シンハラ国(現スリランカ)の港 Dehiwala と考えられる。

 邑盧没国 :インド亜大陸西海岸ムンバイ付近

 湛離国  :Surat(紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。)

 夫甘都盧国:ペルシャのぺルチア王国の首都 Hecatompylos

 黄支国  :Antakya を指す。

       紀元2世紀当時ローマ帝国の支配化にあった

       Antiochiya

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 『参考』
 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 アルパチア遺跡出土の碗形土器

 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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