ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2013年1月9日水曜日
九州に「イヌ人」がいた動かない証拠
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録37:10頁
《九州に「イヌ人」がいた動かない証拠》九州に「イヌ人」がいた動かない証拠
「九州に「イヌ人」がいた動かない証拠」
だからここで「殷」について、さらに見つかった最新情報をご報告申し上げておこう。
それは古代中国の政府が、我が国を「イヌ」の国と呼び、
それを国名として認めた事実の、絶対に動かない証拠なのである。
それはほかでもない、志賀の島の金印である。
そこに彫られた文字を在来は、
「カンのワのナのコクオウ」と読むのだと決め、
私(加治木義博)は「委奴はイヌである」と反対し続けてきたが、
それは委にはワという発音はなく、
一般にワと読まれている「倭」も漢魏音ではウワイだからだった。
そしてさらに中国人は、
もっとよく委はイだと知っていた。
それは倭人を「東夷(イ)」の中に入れていることである。
彼らはそれだけでなく、同じ人々が中国より西にも居ることも知っていた。
それを「西夷=西のイヌ人の略」と呼んでいるからである。
だが今になってみれば、
殷人も倭人も夷も皆、
同じウバイド人の一族なのだから中国人が知っていて当然だったのである。
漢の皇帝がくれた金印に間違ったことが彫ってあるはずがない。
委奴国王印は、
我が国の代表者が「イヌ=殷」人であって漢人とも同族だと知っていたから、
わざわざ「漢の」と肩書を付け加えたのだと解らねば、
学者としては半人前だということになる。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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