ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年9月26日水曜日
神殿が物語るスメル・バビロン帝国形成の経緯
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録33:12頁
《神殿が物語るスメル・バビロン帝国形成の経緯》
「神殿が物語るスメル・バビロン帝国形成の経緯」
ウバイド以来の伝統であった都心の神殿も王宮もないことから、
そこは職人と商人の町で、家内工場や倉が建ち並ぶ商工蔀市だったことは明らかである。
首都は他にあって、そこに女王がいた。
商工業歳の大阪や名古屋と、首都東京とのような関係が、
すでに当時から生まれ営なまれていたのである。
8000年前のウバイドの住居址は、集落の中央に神殿をもっていた。
それと異なるから、モヘンジョ・ダロの先住民は、
ウバイド人ではなかったのではないか?という疑いが生まれる。
しかしウバイドの集落にある神殿を、
それが神殿だと決定できたのは、
それが時とともに立派になって行き、
スメルからバビロンへと時代が進むにつれて、
明瞭に大神殿なったし、
同時に文字が生まれて、
それが神殿であることが明記されているし、
遺物もまた神殿特有のものが出土しているので、
それから逆行してウバイドにまで遡って、
集落中央の特徴のある遺跡が神殿だったと判り、
確認され定義されたのである。
この経韓から、
初期は集落ごとにあった神殿が、
時代と共に数が減り、
首都にだけおかれるという国家形成と小国統合と帝国化といった、
その発展成長の歴史が段階を追ってたどれ、
後には武力中心の男王帝国に変貌して、
興亡を繰り返すようになったが見て取れる。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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『言語復原史学会:画像』
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