ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年9月19日水曜日
インダスヘ入ったアーリャ人こそ「塞=釋迦族=倭人」
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録33:5頁
《インダスヘ入ったアーリャ人こそ「塞=釋迦族=倭人」》
「インダスヘ入ったアーリャ人こそ「塞=釋迦族=倭人」」
中国人が、
その「倭」に人をつけて「倭人」と表記したのは、
遅くとも周の時代だったと解るのは、
『論衡』にある
「倭人、鬯草を貢す」という記事によるが、
周の前の王朝が殷で、
それは稲敷ら中国へ渡ったウバイド人が建てた国だったことは、
既によく御存知だから、もう『論衡』を疑う必要はない。
この鬯草は東南アジアに多産する薬用キノコの一種・霊芝(レイシ)だから、
倭人の移動コースもわかるし、
当時、すでに薬草知識が発達していたことも解る。
だがそれ以上に、
古代ウバイドからインダスへ移住した人々がパーリ語人であり、
シャカ族すなわちスキュタイ人(塞)だったから、
魏は塞曹掾史の張政を我が国に派遣したのだと、
当時の人種区別と認識の深さも併せてわかる。
『魏書倭人章』の解読は、
ここまで解らなければ十分だとは言えない。
これでウバイド人がインダスヘ入ったことは動かなくなったが、
それはスキュタイ人で、在来、単にアーリヤ人という漠然とした
呼称でしか呼ばれていなかった人たちだったから、
この発見は世界史上、
最も重要なものの1つになった。
またこの発見が不動の確実牲をもつことも
仏教の説く最大の特質『慈悲』が、
平和と愛を鉄則とした
女性国家・ウバイドの国是からしか生れない思想によるものだったと判る。
卑弥呼はウバイド女王なのである。
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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