ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年3月20日火曜日
秦王国は下関。俀(ダイ)国は四国以外にはありえない
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録26:24頁
《秦王国は下関。俀(ダイ)国は四国以外にはありえない》
《秦王国は下関。俀(ダイ)国は四国以外にはありえない》
ここで大学院講義録26号で始めて確認できた五彩圏時代の我が国を、
『隋書』を再読してもう一度振り返って見よう。
煬帝(ヨウダイ)は裴輩世清を我が国に派遣して八幡浜で俀王に会わせた。
コースは都斯麻(対馬)国、一支(壱岐)国、竹斯(筑紫)国で、
その東に秦王国があり、
「竹斯より東は皆、俀国に附庸する」と書いている。
秦王国以東が俀国の仲間で、それ以外は違うことを、わざわざ書いているのである。
秦王国はシムノオ=シモノだから下関。
そこから十余国経て達した海岸に上陸した。
そこに俀王の迎え阿輩臺(アフ・トイ・阿部鳥)が儀杖を引き連れて出迎えたという。
彼の船は博多から関門海峡を通って周防灘に入り、
海岸伝いに宇部・防府・徳山・光・上関・柳井・屋代島・中島・松山・伊予の十余国を経て、
長浜(難ガ波国(ながはま))海岸へ上陸したのである。
壱岐や下関が一国だった都市国家時代なのだ。
裴世清の書く「国」は幕末の60余州のような大きなものではない。
仮にそうだとすれば下関以後、これまで上陸海岸とされてきた大阪市の難波までは、
周防・安芸・備後・備中・備前・播磨の6カ国しかない。
幕末でも船旅の旅程は輩世清の時とほとんど変わらない。
裴世清が訪れた俀国は、東西五月行、南北三月行の四国以外には存在しえない。
近畿は東西南北同距離で、地形も違い、海も全くない奈良に俀国があったとは、
空想することさえ難しい。
『参考』
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