ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年3月9日金曜日
八束水臣(おみ)津野の命は水の神で素戔鳴の尊
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録26:13頁
《八束水臣(おみ)津野の命は水の神で素戔鳴の尊》
《八束水臣(おみ)津野の命は水の神で素戔鳴の尊》
でも、まだ高句麗王が愛媛県にいて、
それが蘇我氏で、
入鹿が皇子だったとは、
どうしても信じられないという方もあると思う。
もう少し詳しく見てみよう。
大国主が移って行った、
その出雲には「オウクニ」にふさわしい地名が、
『出雲国風土記』の筆頭に書かれている。
「意宇郡・オウのコホリ=オウグニ」である。
しかしこのオウクニは大国主とは無関係だ。
『風土記』には
*「オウと名づけた理由は、国引きをした八束水臣(おみ)津野の命が、
新羅や高志など、あちこちの余った国を、鉏(すき)を使って掘り取り、
引き寄せた後、「国、引き終えつ」と、杖を突き立てて、
「おえ」と言ったので「おう=終う」というのだ」*
と書いてある。
このオウクニは大国や倭国とは無関係である。
しかしさらに精査してみると貴重な証拠がみつかった。
八束水臣(おみ)津野の命の「八束」は地名としても、
水臣(おみ)津は「みず、おみず」であって、
水が二重に重なっている。
『風土記』は意宇川を
「郡家の正南一十八里の熊野山より出て北流、東折して入海に入る」と説明し、
その熊野山には、「いわゆる熊野大神の社がある」と注記している。
この熊野の大神とは、
『延喜式』にある『出雲国造神賀詞(かむよごと)』に、
「伊邪那伎・乃・日真名子・加夫呂伎・熊野大神・櫛・御気野命」とある。
イザナギの尊の男の愛児(まなご)なら素戔鳴の尊になるし、
出雲と素戔鳴の尊は切っても切れない関係にある。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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ウワイト(倭人):大学講義録
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