2012年3月9日金曜日

八束水臣(おみ)津野の命は水の神で素戔鳴の尊



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録26:13頁

 《八束水臣(おみ)津野の命は水の神で素戔鳴の尊
 《八束水臣(おみ)津野の命は水の神で素戔鳴の尊

 でも、まだ高句麗王が愛媛県にいて、

 それが蘇我氏で、

 入鹿が皇子だったとは、

 どうしても信じられないという方もあると思う。

 もう少し詳しく見てみよう。

 大国主が移って行った、

 その出雲には「オウクニ」にふさわしい地名が、

 『出雲国風土記』の筆頭に書かれている。

 「意宇郡・オウのコホリ=オウグニ」である。

 しかしこのオウクニは大国主とは無関係だ。

 『風土記』には

 *「オウと名づけた理由は、国引きをした八束水臣(おみ)津野の命が、

   新羅や高志など、あちこちの余った国を、鉏(すき)を使って掘り取り、

   引き寄せた後、「国、引き終えつ」と、杖を突き立てて、

  「おえ」と言ったので「おう=終う」というのだ」*

 と書いてある。

 このオウクニは大国や倭国とは無関係である。

 しかしさらに精査してみると貴重な証拠がみつかった。

 八束水臣(おみ)津野の命の「八束」は地名としても、

 水臣(おみ)津は「みず、おみず」であって、

 水が二重に重なっている。

 『風土記』は意宇川を

 「郡家の正南一十八里の熊野山より出て北流、東折して入海に入る」と説明し、

 その熊野山には、「いわゆる熊野大神の社がある」と注記している。

 この熊野の大神とは、

 『延喜式』にある『出雲国造神賀詞(かむよごと)』に、

 「伊邪那伎・乃・日真名子・加夫呂伎・熊野大神・櫛・御気野命」とある。

 イザナギの尊の男の愛児(まなご)なら素戔鳴の尊になるし、

 出雲と素戔鳴の尊は切っても切れない関係にある。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

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