ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年3月17日土曜日
武甕(みか)槌(武御雷(ミカヅチ))は一人ではない
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録26:21頁
《武甕(みか)槌(武御雷(ミカヅチ))は一人ではない》
《武甕(みか)槌(武御雷(ミカヅチ))は一人ではない》
オオマは倭国(オオマ)・大国(オオマ)への当て字。
糸井・イトイは伊都王(イ)である。
この皇后の正式の名乗り「渟名底仲姫」は
ヌナソコナカツヒメ=奴・娜・襲・高・中津女王である。
奴国・娜・蘇奴国と牛(ソ)津・高良=高麗の所有者で、
中津に都する女王という名乗りである。
だからこの部分の大己貴は、
北九州王の難升米・ナのツミ・娜の津見=大間宿祢以外にはない。
これだけ完全に揃えば、この部分が、
先に見た『隋書』中の俀国の記事とは全く別物だということは直ぐわかる。
『隋書』のそれは7世紀の四国での事件だった。
こちらは3世紀の北九州の事件なのである。
四国のほうは、熯速日神の子が武甕(みか)槌の神(武御雷(ミカヅチ)男神)だから、
泉蓋蘇文(イリガスミ)=入鹿に殺された「建武王」だが、
『日本書紀』の登場者では蘇我馬子に殺された崇峻天皇に当たる。
それは四国の西部、いまの愛媛県八幡浜市での事件だったのである。
北九州の方は、それより 350年前の人物である。
経津主は「賦斗邇命・太瓊の天皇=孝霊」で卑弥呼の父である。
卑弥呼の弟でタケのつく皇子は、稚武彦一人だけである。
彼は高句麗山上王・位宮だから、
タケヒコというのは、高彦=高句麗王のことだとわかる。
すると稚・ワカはワケ・別で、ベツ→ビチ→日木(チ)→ヒコ→日向。
稚武彦とは、
「日向から高句麗までを持つ日子」
(卑狗=ピク=土地の測量単位=その支配者=領主)という名乗りだとわかる。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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