ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年1月30日月曜日
筆者は人長ではない。太安萬侶の実体は僧侶
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:32頁
筆者は人長ではない。太安萬侶の実体は僧侶
その人物には『正史』を書こうという意欲はなかった。
それよりも手早く完成して、
それでいて大衆向きがよくて、ベストセラーになるほうがよかった。
それが『日本書紀』の七面倒な内容に比べて、
『古事記』は歌づくしと言いたいほど歌謡を多用し、
名乗りもみな読みガナ式に直し、
事件を興味本位に要約している理由だ。
だから先に彼は反体制家だと言ったが、それは仕事上のことで、
彼自身が筋金入りだったわけではない。
スポンサーの200氏族が掲載を要求した記事がそうなっていたのである。
記事の出所(でどころ)は様々であり、書体もかわり、
名乗りや地名の当て字も同じページでさえ異なっているのがある。
ろくに校正もできなかったほど忙しかったことがわかる。
このことが証言するのは、
その筆者は多ノ人長ではないという事実である。
彼はもっと神経質な学者タイブの人物である。
校正もせずに世に出すようなまねはしない。
では誰が本当の編集者か?
それは会員の皆様に残された興味深々の課題である。
しかしあれだけの漢文をこなした学識は普通ではない。
どういう種類の人だったかわかっている。
太安萬侶は「太=フト」で浮屠(フト)は僧侶、
「安萬=アンマン」でヨルダンの首都名で、彼の姓。
「アンマンという僧侶」が、
従四位にのぼった人物の本来の実体だったのである。
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2012年1月29日日曜日
反政府文書『古事記』のスポンサーは200氏族
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:31頁
反政府文書『古事記』のスポンサーは200氏族
では誰が?、
いつ?、『古事記』を編集したか?が、
その記事でわかるのであろうか?。
残るページで『古事記』の記事全部を検討するわけにはいかないから、
それに匹敵する証拠をご先にいれて、この間いにお答えすることにしよう。
『古事記』には200以上の氏族の出自や由緒が書いてある。
そこに書かれた人々は一応名門だということになる。
いまからみれば人権無視の蛮行だが、
名も無き百姓にはヨダレの出るような境遇だとされていた当時の社会では、
実利の面からいえばそこに掲載されていることが非常に有利であったことは間違いない。
正○位、従○位まで行かなくても、
舎人ぐらいでも肩で風を切っていた時代である。
『古事記』が勅撰になる『正史』かどうかで、
その風の切れ方が違ったことは想像に難くない。
こういう視点からみると
『古事記』は後の『新撰姓氏録』の走りである。
勅撰文書ではない。
だれが書いたか?それは200氏族の敵ではない。
それを手馴づけようとした舎人親王か、
200氏族をスポンサーにした紳士録屋かのいずれかである。
もっとも『日本書紀』も氏族を紹介はしているが、
その数は100氏にも満たない。
舎人親王が『紀』を奏上したあと、
新たなスポンサーの要求に答えて誰かに編集させた可能性が強い。
ところがその誰かが親王以上に反体制思想家だったのである。
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2012年1月28日土曜日
絶世の大天皇・卑弥呼が抹殺されている理由
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:30頁
絶世の大天皇・卑弥呼が抹殺されている理由
天之御中主(実は美知能宇斯=道の大人(うし))を最初の皇祖神として、
本当は卑弥呼の宗女で仏教女王の壹與たちの父なのに、神に仕立てている。
すぐ後に奈良の大仏が建立されたり、
聖武天皇が「仏法の奴(やっこ)」などと自称するので、
倭国崩壊後も仏教は安泰だったと錯覚するが、
現実には倭国イコール仏教で、
仏教は惨めな敗北者だったのである。
その信仰の争いは一大宗教戦争だったのであり、
その激烈な実態は前哨戦だった蘇我馬子と物部守屋の事件でも
充分うかがい知ることが出来る。
敗北者は絶対に浮かび上れない。
仏教徒だと知られただけで役職を失うのである。
それを最大に象徴しているのが『記・紀』ともに、
仏教女王としての卑弥呼の巨大さを、
徹底的に完全に抹消してしまっている事実である。
後世の仁徳天皇以下が、
中国の小政府・宋の小役人の地位でしかない
『安東将軍』を確保するのに汲々としていた事実を考えると、
親魏倭王という中国皇帝と対等の地位を獲た彼女が
どれくらい偉大な天皇だったかよくわかるはずだが、
その卑弥呼を倭迩迩日百襲姫というシヤーマン扱いにしかせず、
神功皇后として描いてもやはり似たような程度の扱い以上には出ていない。
仏教の影は完全に払拭されていることがわかる。
『記・紀』が本当の『正史』なら特筆大書しているはずの卑弥呼の扱いが、
こうして全てを告白しているのである。
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2012年1月27日金曜日
『日本書紀』と『古事記』の闘争と理由と証拠
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:29頁
『日本書紀』と『古事記』の闘争と理由と証拠
ではなぜ?全体は同じなのに、内容に違いがあるのであろう?。
それは先にみたように、編集者の立場が対立していたからだ。
外観が同じなのは、こちらこそ本物の国史なのだと、
主張し信じさせる必要があるからである。
仮に自分が主張したい部分だけを提示してみても、
それでは肝心の権威がない。
それはお前個人の考えに過ぎない。
歴史は『日本書紀』に書いてある。
お前のは手前味噌の『家伝』にすぎない。
と読んで貰えない。
これこそ天皇たちが公認した本当の歴史だと、
読者に信じてもらうのが、
何をおいても先決条件なのだ。
双方とも外観はそっくり同じ『正史』スタイルになっているのである。
しかし中身まで同じでは、本当の目的である「自己主張」はできない。
相手の記事のウソを指摘して、自分たちこそ本当の歴史を知る、
その歴史ある韓を造った貴族の一族なのだと信じて貰えなければ何にもならない。
だから『古事記』は磤馭盧島を、
わざとオノゴロ島に変えてしまった。
その理由は、
のちの『新撰姓氏録』が仁徳天皇系の人たちを一人も掲載していないことが、
はっきり証言している。
理由は、彼等はパーリ語を知る敗北者=旧倭国とは無関係だという主張なのである。
それはまた、彼等が仏教徒であることを隠し否定する記事の質と量も証言している。
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2012年1月26日木曜日
『古事記』の方が「先」の履中天皇の名乗り
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:28頁
『古事記』の方が「先」の履中天皇の名乗り
これで
『古事記』とは何か?
『日本書紀』とは何か?
という大問題に、
ほぼ80%具体的な定義が、研究史上、始めてえられた。
あとには出典の異なる個々の記録の分析と定義が残るだけである。
残りのページを活用して、その実例を幾つかお話ししてみよう。
履中天皇の名乗りは『日本書紀』は「去来穂別天皇」、
『古事記』は「伊邪本和気命」と書いてある。
これはイザナギのミコトという名乗りへの当て字だから、
本当は「伊邪木命」だったのだから『古事記』の方が正しく、
『日本書紀』の方が真相を誤魔化そうとしている、
という結論が、すでに出ている。
伊邪木が間違って伊邪本と書かれたものから去来穂という当て字が
生まれたとみる以外にないからである。
これは『古事記』は『日本書紀』を写したという結論とは、
正反対の結論しか出ない例である。
私たちが出した「『古事記』は『日本書紀』を写した」という結論は、
変えなければいけないのであろうか?
『古事記』は『日本書紀』を写したという結論は、
記事が神代から始まって天皇の配列も『日本書紀』と同じだという
『古事記』全体の「編集状態」が証拠になって出た結論だった。
個々の記事の内容はまだ一部しか検討していないので、
その結論は出ていないのである。
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2012年1月25日水曜日
求めるのは「完全な編集」でなく「史実の確認」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:27頁
求めるのは「完全な編集」でなく「史実の確認」
以上の経緯がわかると、
『古事記』序文が書く天武天皇の言葉も全くの作り事ではないことが、
はっきりわかる。
『古事記』は後世の作品ではあっても、事実に基づいて書かれている。
この点は、
『日本書紀』のソナカ=仲哀天皇と卑弥呼の記事が分散していたのと同じで、
時間帯はウソだがそれは編集者の罪で、記事の内容は史実なのと似ている。
時代がウソだから、全部ウソで固めてあるという説は短絡である。
左翼学者がその時間帯のウソを理由に、
『古事記』全体を抹殺した行為は、徒労だったのである。
私たちが『記・紀』に求めているのは史実の確認である。
決して「完全な編集」を求めているのではない。
だから『古事記』が宝の山であることは変わらない。
短絡説に支配されて抹殺してしまっては、
史家の名にみずから泥を塗ることにしかならない。
私たちは『記・紀』が「拙(まず)く」?あるいは「巧妙に」?編集した、
それらの史実を検討して正しく復元しなければならない。
それも読者から非難されないように、
史実だとみとめた理由を明記しておかねばならない。
戦前の右翼のように『古事記』は絶対だ、
などといって誤魔化すような卑怯な真似は許されない。
そんなことしか出来ないのなら、建国史以外にも幾らでも仕事はある。
『記・紀』研究史は残念ながら粗雑すぎたのである。
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2012年1月24日火曜日
『古事記』『日本書紀』という書名の歴史
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:26頁
『古事記』『日本書紀』という書名の歴史
*だからこそ彼と対立した天武天皇は、自選の国史に『古事記』という名をつけたのである。
そして国名も日本を避けて、全て『倭』にした。
対立は長く尾を引いていたことがわかる*
これが川島皇子らに記定を命じた理由なのである。
『古事記』という名はその『上古諸事』『帝紀』を前から1字ずつ省略して、
「上古=古」「諸事=事」「帝紀=記」と削ったものなのである。
『古事記』は、まるきり贋物というわけではない。
本来なら『日本書紀』でなく『古事記』が先に生まれるはずだったが、
天武天皇の死後は、
天智天皇の2人の皇女、
持統天皇と元明天皇、
元明天皇の皇女・元正天皇が相次いで立ち、
天武天皇の遺志は無視されて、亡き父・天智天皇の方に傾いた。
舎人親王も敢えて書名をつけず、「紀30巻、系図1巻」として奏上したのである。
無名の『紀』が『日本書紀』と呼ばれるようになったのには別の歴史がある。
無名では不便なので内容が日本史だから『日本紀』と呼ばれると、
先進国の唐では正史を『宋書』 『唐書』というふうに『書』と呼ぶから
「紀ではない、書が正しい」と『日本書』と呼ぶ者が出て混乱が生じた。
そこで双方を折衷した統一案が生まれて『日本書紀』という名が定着したのである。
それは最初から命名されていた書名ではない。
『日本書紀』という書名が定着するまでには、
こんな長い曲折の歴史があったのである。
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2012年1月23日月曜日
『日本書紀』は矛盾を覚悟で編纂した苦肉の作品
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:25頁
『日本書紀』は矛盾を覚悟で編纂した苦肉の作品
これを講義録(院)22の『記・紀』の『定義』のうち、
関連のある部分と再照合してみよう。
* 『記・紀』は、倭国と日本国が合併したから必要になって作られた国史だった。
双方の旧国民を納得させるためには、双方の天皇たちを、
全部、皇祖皇宗として記録しなければ、必ず内乱が起こる。
しかし本来、別々の系図に並んだ先祖代々の系譜を、
2本並べて併記することは出来るが、それでは将来に禍根を残すから、
倭国と日本は古来、1つの国であったとして、国史を書き直したのである。
2本の系図を1本にするには、同時存在を全て父か子の位置こ移さなければならない。
『記・紀』は最初から、こうした矛盾を覚悟して、過去を犠牲にして、
未来の安定・幸福を願って作られた、苦肉の作品なのである。
だから『日本書紀』は、その書名がはっきり証明しているように、
もと小国日本の王・天智天皇が企画した国史なのである。
仮に天武天皇が企画したのなら、書名に日本などとつけない。
『日本書紀』は間違いなく天智天皇が編纂させた「日本国の国史」だったのだ*
これが、のちの天皇たちに、ただ『典』とだけ呼んでも、
知らぬ人のいない『不改常典』=『原日本書紀』だったことは、
もう疑う余地がない。
しかしそれは天武天皇の未来志向で必ず改定される運命にあった。
天智天皇による倭国と日本の統一は、さらに複雑化した。
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2012年1月22日日曜日
『日本書紀』編集関連年表
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:24頁
『日本書紀』編集関連年表
天皇 年月 関係者と事跡、関係要件
天智天皇9年2月 「庚午年籍(こうごねんせき)」を創制
天智天皇 『不改常典(ふかいじょうてん)』=『原・日本紀』
天武天皇10年3月 川島皇子、忍壁皇子らに『帝紀』『上古諸事』記定を命ず
持統天皇4年 『元嘉暦』採用→7年間使用
『日本書紀』の『元嘉暦』部分
持統天皇5年8月 18氏纂記提出を命ず
持統天皇5年9月 川島皇子死去
持統天皇5年 舎人親王、『日本書紀』の『元嘉暦』部分を引き継ぐ
元明天皇慶雲4年 即位。
詔で『典=不改常典』礼讃
文武天皇 元年 『儀鳳暦』採用→67年間使用
文武天皇 元年 →舎人親王、『紀』の『儀鳳暦』部分を加上
元正天皇養老4年5月 舎人親王、『紀』を完成、『紀』30巻、系図1巻を奏上
聖武天皇神亀元年 即位。
詔で『典=不改常典』礼讃
嵯峨天皇弘仁4年 多ノ人長、『日本紀私記(弘仁私記)』作成、講述
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2012年1月21日土曜日
定義 『古事記』は『日本書紀』の写本の一種
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:23頁
定義 『古事記』は『日本書紀』の写本の一種
『古事記』は、これまで徹底的に検証したように、
『儀鳳暦』時代に入ってから、
『日本書紀』が加上していった歴代天皇紀から神代紀まで、
全部同じ順序に編集されており、その加上の結果、
やっと決定された天皇の数と順序もまた『日本書紀』と同じだから、
川島皇子らの『原日本書紀』が舎人親王に引き継がれて、
少しずつ加上されて行って、ようやく完成した後に、
その完成した『日本書紀』を見て書いたものであることは動かない。
だとすると天武天皇の時に稗田阿礼という舎人が、
それを記憶したという『古事記』序文がウソであることは見え透いてくる。
『儀鳳暦』部分は文武天皇時代になって始めて新たに編集されてこの世に生まれ出て、
追加されたのだから、
天武天皇時代に『儀鳳暦』の部分が存在したはずがないからである。
ましてや、その初期の部分の天皇記が付け加えられた後に、
さらに新たに考案されて付け加えられた「神代」の部分が、
ほとんどそのままで、ただ「瓊と沼」一字だけしか違わない。
また「磤馭盧島をオノコロジマ」と読み間違えている。
これらの点は完成した『日本書紀』を写さなければ、
絶対にできないことだからである。
こうして様々な視点から繰り返し検討して見ても、
『古事記』は、完成した『日本書紀』を写したものだという定義は変わらない。
念のため『日本書紀』編集年表で頭を整理しておこう。
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2012年1月20日金曜日
『記・紀』を生んだのは天皇たちの危機感
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:22頁
『記・紀』を生んだのは天皇たちの危機感
『記・紀』を生んだのは天皇たちの危機感
それをみると、天智天皇は、まず自分の歴史から手をつけたことは明らかである。
それが永遠に信じて貰えることが、願望だったことも疑いない。
元明・聖武の2帝が即位に際して、
ことさらに『典=不改常典(ふかいじょうてん)』を詔に入れたのは、
「今後は絶対に改定されることのない歴史になって欲しい」という
天智天皇の願いを再確認し、それを必ず守ると宣誓するすることが、
皇位継承者最大の義務であり、それが皇統を守ることであり、
国家の平穏の礎(いしずえ)なのだという国民に対する教育を含んだ、
『即位の宣誓』だったからである。
だから天智天皇の場合は、その修史の動機が明瞭である。
天武天皇もまた革命の正当性を主張する必要は天智天皇に劣らなかった。
これまた天智天皇の『不改常典』を直ちに改革する必要に迫られていた。
彼が洩らしたという『古事記』序文にある
「朕、聞く、諸家のもつ帝紀および本辞、すでに正実に違い、多く虚偽を加う」と
非難した言葉は、間違いなく天智天皇が残した『原・日本書紀』をさしている。
天武天皇としては、それ以外の古い歴史など、どうでもよく、
気にする必要などなかったはずだからである。
こうした天皇たちの立場が、その心理を考えることで、よく読みとれる。
過去の『記・紀』の解説には、それがごくお座なりか、全く見当たらないから、
信頼がおけないのである。
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『書紀』は政策史書だと暴露している天智関連記事
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:21頁
『書紀』は政策史書だと暴露している天智関連記事
『書紀』は政策史書だと暴露している天智関連記事
では『日本書紀』は全部の記事がそんな寓意をもった「教科書」なのか?。
欽明天皇から後は寓話が少なく、一見史書らしい記録記事ばかりになっている。
しかしよくみると御存知の大化大戦の前後は、
史実とはいえない政治的小細工に満ちている。
そこには天智天皇自身が中の大兄の皇子や阿倍の比羅夫や金春秋に分裂して、
孝徳天皇紀から斉明天皇紀、
そして天智天皇紀にまで、
まるで別人のことのように様々に分裂して分散しているのを見る。
それは古い歴史ではなく、
『原日本書紀』を編纂し始めた時の、同時代記録なのである。
企画者自身がそんな「限眩(くら)まし」を実行しているのは、
旧倭国民への深刻な配慮以外に理由はありえない。
それは大化改新記事で明らかなように、
天智天皇の革命が正当な行為だったという主張と、
日本政権が主流で、
倭国が亜流で家臣だという観点で貫かれている。
天智天皇がなぜ?
新しい国史を必要としたか、
そのために倭国の歴史がどう抹殺されたか、またそれに対して、
旧倭国民がどう抵抗したか、人間界の実情に少し鋭い眼をもつ人には、
簡単に理解できる問題ばかりである。
それさえも考えなかった在来の学者たちがどの程度の頭脳の持ち主だったか、
いまさら申し上げるまでもない。
その説を引用する前にお手持ちの論説文献を、
この視点からご再検戴くことが、
絶対に必要不可欠なのである。
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2012年1月18日水曜日
定義 『古事記』は反政府陰謀が生んだ思想書
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:20頁
定義 『古事記』は反政府陰謀が生んだ思想書
定義 『古事記』は反政府陰謀が生んだ思想書
「国生み」はまた、記・紀の質も証言している。
それは『日本書紀』の「天瓊矛」を
『古事記』は「天沼矛」と当て字していることである。
これでは「瓊=玉」が完全に消えて、
上記の深い政治哲学の歴史も意義も無になっている。
この寓話の教えようとする真髄がなくなって、何のための寓話なのかわからない。
『古事記』は完全に役に立たないことが、お解りになるはずである。
すでに見た磤馭盧をオノゴロと誤読したか、またはわざと改訳したために、
重要な史実も文化もわからなくした行為と同じことが、
この天沼矛にも見られる。
これが『日本書紀』がもつ高い文化と教養と史実を
滅茶めちゃにしていることは誰にでもわかる。
先にその筆者が太安萬侶なら、
彼は日本語を知らない異境の人物だと推理したが、
今また別の意味で立証されたことになる。
オノゴロだけなら「無知による誤訳」とも考えられるが、
これほどの文化破壊を「沼」の字で重ねて実行しているのをみれば、
それは明かに意図的に実行されている。
大学院講義録23の6頁ですでに
『古事記』が『日本書紀』を作った政府に対する反感か、
さらには、もっと深刻で強烈な思想的陰謀による作品だと指摘したが、
それが今、決定的になったのをみる。
『記・紀』は共に、
このように一字がもつ重大さを熟知して初めて理解し評価できる
「深い寓意に満ちた高度の思想文書」だったのである。
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2012年1月17日火曜日
18氏『纂記』記事の実体と舎人親王の深謀遠慮
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:19頁
18氏『纂記』記事の実体と舎人親王の深謀遠慮
しかし『日本書紀一書』をみると、
「国生み」の異説は10ある。
それらの一書は、持統天皇が朱鳥5年8月に提出させたと『日本書紀』が書く
『18氏の纂記』以外のものだとは考えられないから、
18氏らがすでにもっていた寓話であったことは疑えない。
決して舎人親王の創作ではなく。
後世に書かれたものでもない。
だから舎人親王が書き加えたのだとすることはできない。
「国生み」部分は舎人親王の意思とは無関係だと誰しもが思う。
だがそこに1つの「落し穴」がある。
「持統天皇が命じて18氏に『纂記』を提出させた」という記事は
『日本書紀』に書いてあるだけで他にはない。
舎人親王なら、その記事を書き加えることができる。
でもなぜ?そんなことをする必要があるのだろう?。
それを書き加えることで、「国生み」は舎人親王が自己の有利をはかって、
わざわざ強調したものではない。
それは「そう書いてあったのだから仕方がない」ということになり、
親王は追及を逃れ、「国生み」は第三者証言だという強みができるが、
自分で書いたと知られたのでは弱く、政敵に非難されて逆効果になる。
前後を深く観察すると親王はそこまで考えられる知性人である。
そして「国生み」には殊更に、10種もの「一書」が並べられている、
それは親王が工作し加筆したことを、
一層強く証言する動かぬ証拠に見えるのである。
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2012年1月16日月曜日
定義 舎人親王が加上した『儀鳳暦』部分
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:18頁
定義 舎人親王が加上した『儀鳳暦』部分
定義 舎人親王が加上した『儀鳳暦』部分
舎人親王は正式に、養老4年5月に『紀』30巻、系図1巻を奏上した。
彼が後から書き加えた「加上」部分は、
国家の決めた正規の暦の現行『儀鳳暦』が当然のこととして使われ、
仮に他の暦が混入していても、
それらは全部、奏上時までに訂正されたのである。
川島皇子は天武天皇10年に帝紀と上古諸事を記定せよと命ぜられて、
持統天皇5年9月に亡くなった。
記録にはないが、舎人親王の『紀』30巻、系図1巻は、
それを引き継いだものだとされているが、
『日本書紀』の内容が膨大なことを考え、
またそれに類する別のものが提出されていないのをみると、
この推定が正しいと考える以外にない。
しかし親王が引き継いだのは、『元嘉暦』部分だけで、
『儀鳳暦』部分は文武天皇以後に、
舎人親王が新たに書き加えたものである。
それは当時の政情と親王たちの地位とを考えると、
他の名もなき人物が、
この引き継ぎに介在する余地がないことは明白で、
これも他に代案を考えようがない。
史実である。
これで『日本書紀』の加上部分は全て舎人親王とそのブレーンの創作加筆だと確定した。
すると同じ「天の御柱」寓話を、
同じ順序で掲載している『古事記』が、
養老4年以前には存在するはずがないことになる。
『古事記』序文は、大ウソだったのであろうか?。
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2012年1月15日日曜日
『書紀』編纂史の生き証人『元嘉暦』と『儀鳳暦』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:17頁
『書紀』編纂史の生き証人『元嘉暦』と『儀鳳暦』
『書紀』編纂史の生き証人『元嘉暦』と『儀鳳暦』
御柱寓話のある『神代』巻には年代は使っていないが、
それに続く『神武天皇紀』からは、
紀元前年だと明確にわかる年の、
「その年の冬十月丁未の朔辛酉の日に」と、
東征出発の日から書き始めて、
以後ずっと年月が記載してある。
これが『儀鳳暦』である。
『元嘉暦』は、
持統天皇4年12月から使われて、
持統天皇がその11年8月に
文武天皇に譲位した時まで7年間使われた。
『日本書紀』の記事の『元嘉暦』の部分は、
この7年の間に年月や干支や日付が書き加えられたと、明確に定義できる。
もう一度いうと『儀鳳暦』は、
『元嘉暦』の廃止に伴って、文武元年以後に使われた暦である。
舎人親王が編集した部分は皆、『儀鳳暦』で書かれているから、
文武元年以後に書き加えられたことは動かない。
なぜなら、それ以前からその記事がはいっていたのなら、
全て『元嘉暦』の日付が入れられているはずなのに、
その時は使われていなかった『儀鳳暦』の日付が入っているからである。
しかし
「『儀鳳暦』は天武天皇5年に我が国に伝わっているから、
それを使って書いた部分があったのだ」という人がいれば、
それは余りにも非常識な間違いである。
国家の根幹をなす「邦家の経緯」である修史は万事厳格に規定されている。
舎人親王の『儀鳳暦』使用も、
それに従って、その時の正暦を使用した結果なのだ。
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2012年1月14日土曜日
寓話「天の御柱めぐり」が生んだもの
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:16頁
寓話「天の御柱めぐり」が生んだもの
寓話「天の御柱めぐり」が生んだもの
この舎人親王の行為は、確かに私憤だが、
彼がたいそう道徳家だったことが
『日本書紀』を教科書として見ると、はっきりわかる。
彼は『日本書紀』を帝王学の教科書にするだけの倫理観と教養を身につけていた。
言い換えると彼は帝王学を学んで育っていたのである。
それは彼に始まったことではなく、
アレクサンドロス大王が
アリストテレスから帝王学を始め当時の最高の科学に至るまで、
ありとあらゆる古今内外の知識を教わったのと同じく、
幼時から高度の教育を受けるギリシャ発祥の王室の伝統が、
わが国にもあったからである。
わが国の五彩圏の5国の名が全てギリシャの国名であるのは、
アレクサンドロス大王が、占領した各国の首都に
アレキサンドリヤと命名したのと同じギリシャの伝統が、
わが国にも伝わっていたことの動かぬ証拠である。
そうしたギリシャの伝統を伝えていた我が皇室では、
舎人親王に限らず皇族の子弟が、
高度の帝王学を学んでいたのは当然だったのである。
だから親王は、寓話という形で、
露骨でなく、やんわりと、女性上位の欠点を指摘した。
それが「天の御柱めぐり」寓話だったのである。
それは露骨でないため速効性はなかった。
親王も天皇にはなれなかったが、
しかし確実に効果をあらわして、
ついに天皇は男子に限るという伝統を発進させ、
彼の皇子も即位して淳仁天皇になることができたのである。
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2012年1月13日金曜日
定義 「天の御柱めぐり」の作者は舎人親王
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:15頁
定義 「天の御柱めぐり」の作者は舎人親王
定義 「天の御柱めぐり」の作者は舎人親王
『儀鳳暦』は、唐の麟徳2年に完成した暦で、天武天皇5年にわが国に伝わった。
その時が唐の儀鳳2年だったので、わが国では儀鳳暦と呼ぶ。
『元嘉暦』は南宋の元嘉20年に作られて、
推古天皇の時、百済僧・観勒(カンロク)が天皇に伝えたが公式には使われず、
持統天皇4年12月になって、始めて公式に使いはじめたが、
これも僅か7年で廃止して儀鳳暦に改められ、
以後67年間、儀鳳暦が公式暦として使われた。
神武天皇元年の元旦=1月1日が、
今の暦では2月11日であるように、暦にはそれぞれ特徴がある。
『日本書紀』に書かれた年月日と干支を調べると、
それがどんな暦によるものかが直ぐわかるから、
『元嘉暦』による年月日は、持統天皇時代の7年間に記入したことが、
はっきり証明され、定義できる。
『儀鳳暦』は、その『元嘉暦』が廃止された後の暦だから、
『儀鳳暦』を使っている部分は、その後で編集されたことも、
またはっきり証明され、定義できる。
そこで実際に調べて見ると、
『日本書紀』の記年は、
前の方が『儀鳳暦』、後の方が『元嘉暦』で、逆になっている。
前の方のその部分は「後で書き足したものだ」と、明確に定義できるのである。
舎人親王は間違いなく後から書き、編集したのだから、
問題の「天の御柱めぐり」は舎人親王の作品である。
この定義は崩れることはない。
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2012年1月12日木曜日
女性上位を憎む動機と境遇と条件の持ち主は?
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『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:14頁
女性上位を憎む動機と境遇と条件の持ち主は?
女性上位を憎む動機と境遇と条件の持ち主は?
『日本書紀』を完成して元正天皇に奏上したのは舎人親王だった。
親王は天武天皇の第3皇子で、母は天智天皇の皇女・新田部皇女だから祖父も父も天皇である。
また、その息子の大炊(おおい)王も後に淳仁天皇になり、
舎人親王自身も死後、崇道冬敬皇帝と、贈り名されている。
運がよければ天皇になる資格充分の人物だったのである。
しかし、父・天武天皇の死後、持統天皇と元明天皇、元正天皇と3代の女帝が続き、
彼は 臣下として仕えるしかなかった。
もし女性は天皇にはなれないという規則でもあれば、
彼は 間違いなく天皇になれたのにと、
女性上位を憎む動機と条件と境遇を、
彼以上に備えた人物は見当たらない。
彼が「国生み」という国家発祥の重大な寓話に、
男性上位を強調する彼の憤満と願望を強く込めたとしても、
それは当然であって異常ではない。
また『日本書紀』は神代から始まるので一見、
神代から書き始めたように見えるが、
神武紀以後に使われている暦の研究から、
古い元嘉暦と新しい儀鳳暦とが逆に使われていることがわかり、
『記・紀』は先に後半部が完成し、
後から前半が書き足されたことが歴然とした。
だから前半を書き足したのは、後の編集責任者・舎人親王の仕事だとわかる。
この動機と、親王が編集した部分を考え合わせると、
やはり「国生み」の作者は舎人親王以外にはない。
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女性上位を憎む動機と境遇と条件の持ち主は?
女性上位を憎む動機と境遇と条件の持ち主は?
『日本書紀』を完成して元正天皇に奏上したのは舎人親王だった。
親王は天武天皇の第3皇子で、母は天智天皇の皇女・新田部皇女だから祖父も父も天皇である。
また、その息子の大炊(おおい)王も後に淳仁天皇になり、
舎人親王自身も死後、崇道冬敬皇帝と、贈り名されている。
運がよければ天皇になる資格充分の人物だったのである。
しかし、父・天武天皇の死後、持統天皇と元明天皇、元正天皇と3代の女帝が続き、
彼は 臣下として仕えるしかなかった。
もし女性は天皇にはなれないという規則でもあれば、
彼は 間違いなく天皇になれたのにと、
女性上位を憎む動機と条件と境遇を、
彼以上に備えた人物は見当たらない。
彼が「国生み」という国家発祥の重大な寓話に、
男性上位を強調する彼の憤満と願望を強く込めたとしても、
それは当然であって異常ではない。
また『日本書紀』は神代から始まるので一見、
神代から書き始めたように見えるが、
神武紀以後に使われている暦の研究から、
古い元嘉暦と新しい儀鳳暦とが逆に使われていることがわかり、
『記・紀』は先に後半部が完成し、
後から前半が書き足されたことが歴然とした。
だから前半を書き足したのは、後の編集責任者・舎人親王の仕事だとわかる。
この動機と、親王が編集した部分を考え合わせると、
やはり「国生み」の作者は舎人親王以外にはない。
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