ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年1月24日火曜日
『古事記』『日本書紀』という書名の歴史
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:26頁
『古事記』『日本書紀』という書名の歴史
*だからこそ彼と対立した天武天皇は、自選の国史に『古事記』という名をつけたのである。
そして国名も日本を避けて、全て『倭』にした。
対立は長く尾を引いていたことがわかる*
これが川島皇子らに記定を命じた理由なのである。
『古事記』という名はその『上古諸事』『帝紀』を前から1字ずつ省略して、
「上古=古」「諸事=事」「帝紀=記」と削ったものなのである。
『古事記』は、まるきり贋物というわけではない。
本来なら『日本書紀』でなく『古事記』が先に生まれるはずだったが、
天武天皇の死後は、
天智天皇の2人の皇女、
持統天皇と元明天皇、
元明天皇の皇女・元正天皇が相次いで立ち、
天武天皇の遺志は無視されて、亡き父・天智天皇の方に傾いた。
舎人親王も敢えて書名をつけず、「紀30巻、系図1巻」として奏上したのである。
無名の『紀』が『日本書紀』と呼ばれるようになったのには別の歴史がある。
無名では不便なので内容が日本史だから『日本紀』と呼ばれると、
先進国の唐では正史を『宋書』 『唐書』というふうに『書』と呼ぶから
「紀ではない、書が正しい」と『日本書』と呼ぶ者が出て混乱が生じた。
そこで双方を折衷した統一案が生まれて『日本書紀』という名が定着したのである。
それは最初から命名されていた書名ではない。
『日本書紀』という書名が定着するまでには、
こんな長い曲折の歴史があったのである。
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