2012年1月24日火曜日

『古事記』『日本書紀』という書名の歴史



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録24:26頁

 『古事記』『日本書紀』という書名の歴史

 *だからこそ彼と対立した天武天皇は、自選の国史に『古事記』という名をつけたのである。

  そして国名も日本を避けて、全て『倭』にした。

  対立は長く尾を引いていたことがわかる*

 これが川島皇子らに記定を命じた理由なのである。

 『古事記』という名はその『上古諸事』『帝紀』を前から1字ずつ省略して、

 「上古=古」「諸事=事」「帝紀=記」と削ったものなのである。

 『古事記』は、まるきり贋物というわけではない。

 本来なら『日本書紀』でなく『古事記』が先に生まれるはずだったが、

 天武天皇の死後は、

 天智天皇の2人の皇女、

 持統天皇と元明天皇、

 元明天皇の皇女・元正天皇が相次いで立ち、

 天武天皇の遺志は無視されて、亡き父・天智天皇の方に傾いた。

 舎人親王も敢えて書名をつけず、「紀30巻、系図1巻」として奏上したのである。

 無名の『紀』が『日本書紀』と呼ばれるようになったのには別の歴史がある。

 無名では不便なので内容が日本史だから『日本紀』と呼ばれると、

 先進国の唐では正史を『宋書』 『唐書』というふうに『書』と呼ぶから

 「紀ではない、書が正しい」と『日本書』と呼ぶ者が出て混乱が生じた。

 そこで双方を折衷した統一案が生まれて『日本書紀』という名が定着したのである。

 それは最初から命名されていた書名ではない。

 『日本書紀』という書名が定着するまでには、

 こんな長い曲折の歴史があったのである。

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