ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年1月15日日曜日
『書紀』編纂史の生き証人『元嘉暦』と『儀鳳暦』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:17頁
『書紀』編纂史の生き証人『元嘉暦』と『儀鳳暦』
『書紀』編纂史の生き証人『元嘉暦』と『儀鳳暦』
御柱寓話のある『神代』巻には年代は使っていないが、
それに続く『神武天皇紀』からは、
紀元前年だと明確にわかる年の、
「その年の冬十月丁未の朔辛酉の日に」と、
東征出発の日から書き始めて、
以後ずっと年月が記載してある。
これが『儀鳳暦』である。
『元嘉暦』は、
持統天皇4年12月から使われて、
持統天皇がその11年8月に
文武天皇に譲位した時まで7年間使われた。
『日本書紀』の記事の『元嘉暦』の部分は、
この7年の間に年月や干支や日付が書き加えられたと、明確に定義できる。
もう一度いうと『儀鳳暦』は、
『元嘉暦』の廃止に伴って、文武元年以後に使われた暦である。
舎人親王が編集した部分は皆、『儀鳳暦』で書かれているから、
文武元年以後に書き加えられたことは動かない。
なぜなら、それ以前からその記事がはいっていたのなら、
全て『元嘉暦』の日付が入れられているはずなのに、
その時は使われていなかった『儀鳳暦』の日付が入っているからである。
しかし
「『儀鳳暦』は天武天皇5年に我が国に伝わっているから、
それを使って書いた部分があったのだ」という人がいれば、
それは余りにも非常識な間違いである。
国家の根幹をなす「邦家の経緯」である修史は万事厳格に規定されている。
舎人親王の『儀鳳暦』使用も、
それに従って、その時の正暦を使用した結果なのだ。
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