ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年1月16日月曜日
定義 舎人親王が加上した『儀鳳暦』部分
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:18頁
定義 舎人親王が加上した『儀鳳暦』部分
定義 舎人親王が加上した『儀鳳暦』部分
舎人親王は正式に、養老4年5月に『紀』30巻、系図1巻を奏上した。
彼が後から書き加えた「加上」部分は、
国家の決めた正規の暦の現行『儀鳳暦』が当然のこととして使われ、
仮に他の暦が混入していても、
それらは全部、奏上時までに訂正されたのである。
川島皇子は天武天皇10年に帝紀と上古諸事を記定せよと命ぜられて、
持統天皇5年9月に亡くなった。
記録にはないが、舎人親王の『紀』30巻、系図1巻は、
それを引き継いだものだとされているが、
『日本書紀』の内容が膨大なことを考え、
またそれに類する別のものが提出されていないのをみると、
この推定が正しいと考える以外にない。
しかし親王が引き継いだのは、『元嘉暦』部分だけで、
『儀鳳暦』部分は文武天皇以後に、
舎人親王が新たに書き加えたものである。
それは当時の政情と親王たちの地位とを考えると、
他の名もなき人物が、
この引き継ぎに介在する余地がないことは明白で、
これも他に代案を考えようがない。
史実である。
これで『日本書紀』の加上部分は全て舎人親王とそのブレーンの創作加筆だと確定した。
すると同じ「天の御柱」寓話を、
同じ順序で掲載している『古事記』が、
養老4年以前には存在するはずがないことになる。
『古事記』序文は、大ウソだったのであろうか?。
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