ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年1月23日月曜日
『日本書紀』は矛盾を覚悟で編纂した苦肉の作品
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録24:25頁
『日本書紀』は矛盾を覚悟で編纂した苦肉の作品
これを講義録(院)22の『記・紀』の『定義』のうち、
関連のある部分と再照合してみよう。
* 『記・紀』は、倭国と日本国が合併したから必要になって作られた国史だった。
双方の旧国民を納得させるためには、双方の天皇たちを、
全部、皇祖皇宗として記録しなければ、必ず内乱が起こる。
しかし本来、別々の系図に並んだ先祖代々の系譜を、
2本並べて併記することは出来るが、それでは将来に禍根を残すから、
倭国と日本は古来、1つの国であったとして、国史を書き直したのである。
2本の系図を1本にするには、同時存在を全て父か子の位置こ移さなければならない。
『記・紀』は最初から、こうした矛盾を覚悟して、過去を犠牲にして、
未来の安定・幸福を願って作られた、苦肉の作品なのである。
だから『日本書紀』は、その書名がはっきり証明しているように、
もと小国日本の王・天智天皇が企画した国史なのである。
仮に天武天皇が企画したのなら、書名に日本などとつけない。
『日本書紀』は間違いなく天智天皇が編纂させた「日本国の国史」だったのだ*
これが、のちの天皇たちに、ただ『典』とだけ呼んでも、
知らぬ人のいない『不改常典』=『原日本書紀』だったことは、
もう疑う余地がない。
しかしそれは天武天皇の未来志向で必ず改定される運命にあった。
天智天皇による倭国と日本の統一は、さらに複雑化した。
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