ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年10月28日金曜日
特記の動機は当時までの惨澹たる中国の政情
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録21:26頁
《特記の動機は当時までの惨澹たる中国の政情》
これを幼稚だとか、サギ的だとか責めることができるだろうか?。
現在でも「神」で説明する者が多数いる。
多数の人々が神に祈り、神を信じる者が自爆テロを起こしている。
では書紀編者は迷信でそれを書いたのか?。
そうではない。
証拠は『日本書紀』が立派な漢文で書かれている事実だ。
彼らは現在の日本人以上に中国の歴史をよく知っていた。
その歴史とは次のようなものだったのである。
後漢末の
220年、
曹丕(ヒ)が天子を退位させて魏帝国にし自分が帝位についた。
265年
その魏の重臣・司馬炎が天子を退位させて、晋帝国にし自分が帝位についた。
316年、
こんどは劉曜が帝国を乗っ取り、2年後に琅邪(ロウヤ)王だった皇族の睿(エイ)が
建康(南京)で東晋を樹て、南北朝時代にはいる。
しかし南朝は100年程で滅び、継いだ宋、斉、梁、陳もみな短命といった有様で、
この間に北の人たちが
北魏(386)帝国を造ったが、
東魏と西魏に分裂(535)、
その東魏も北斉(550)に、
西魏は北周(557)になり、
北周が北斉を倒して北方を統一したのも束の間
部下の将軍・楊堅に帝位を奪われて
隋帝国と名が変わった。
その隋も重臣の李淵に潰されて唐と名が変わった。
この動乱のたびに避難民が我が国にやって来ている。
こんな実情は当時の日本人の常識だった。
それがまだ生々しい唐代に『日本書紀』が書かれたののである。
『My ブログ』
歴史徒然
ネット歴史塾
ウワイト(倭人)ウバイド
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史の画像
歴史学講座『創世』うらわ塾
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
シュメル-人類最古の文明
The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
登録:
コメントの投稿 (Atom)
1 件のコメント:
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
コメントを投稿