『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:30~31頁
言語復原史学会・隅田 真也
《古事記序文執筆者Xは誰か》
元明天皇は「712年書写古事記」のヒローイン。
「記」は誕生以来マイナーな「書」であつたが。
序文、本文とも正式な上表文ではないが。
元明天皇は本文を読破していたし、
勿論そこに何が書かれているのか全部読めた。
それどころか「記」の内容の重要さに驚きあわてて
翌713年全国に「風土記」提出命令を発布、
ついで714年「紀の清水と三宅藤麻呂に国史をまとめるよう」指示した。
未調査で推測だが、これも何がしかの「提出文」があり、
執筆者Ⅹも眼を通していたに違いない。
執筆者Ⅹの正体に話を戻すと、序文の記述内容から「Ⅹ」も安萬侶も
天武の下で働いた同時代人であるが、
二人とも天智、天武、持統、文武、元明、元正天皇と
6~7代もの天皇の間「生」を
まっとうして来た人物だと云う事である。
特に「Ⅹ」は安萬侶よりずっと「位」が高く
常にそれぞれの天皇の側近であった人物である。
勿論「史書」を扱い712年の事を成すに適材、
適任者であったのは言うまでもない。
正体が解ると自分は無記名で何故安萬侶を表にだしたか、
その立場、気持ちが分かる。
答えをだすにあたって整理しておくと、
① 681年天武「記して定めろ・日本書記」、
② 690年持統「十八氏纂紀・日本書紀加筆」、
③ 執筆者Ⅹ「持統没年記事等加筆」
④ 712年元明+Ⅹ+安萬侶「書写古事記」
⑤ 713年元明「風土記提出命令」
⑥ 714年「紀の清水、三宅藤麻呂に国史をまとめるように指示」
⑦ 720年舎人親王「日本紀+紀州巻系図奏上」、こんな流れでなかっただろうか。
で後に、先祖、安萬侶を持ち上げすぎて現代学者に誤解を招いた
「多人長」なるものが登場し彼は813年「弘仁私記序」で
「夫、日本書紀は一品舎人親王(清御原天皇の第5皇子なり)
安萬侶等(王子神八井耳命の後なり)勅を奉じて撰ぶ所なり」と書いた。
現代これがおかしいと云う事になっているのだが、
真相は逆で実は親王、
安萬侶コンビは実際あった事なのだ。
もう答えは見えているはず、
執筆者Ⅹはずばり=天武天皇の第5皇子=舎人親王その人であったのだ。
無記名で「事写古事記」を成立させ、
720年
今度は「名乗りをあげて」=「日本書紀・紀州巻系図を浮上」させた。
母は天智天皇の皇女新田部皇女、元明・元正~聖武朝に重用され
官位は695年(持統9)浄広弐から718年一品に至る。
719年皇太子の輔翼に命ぜられ内舎人2人、
大舎人4人衛士30人を賜い翌年5月奏上である。
712年、720年両方に関与し
各々「成立」「浮上」させた立役者としての親王の動きと、
辞書にみる親王の履歴の中身とは、よく合致しているように思われる。
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