ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2011年10月23日日曜日
検討すればする程凄いの真実度
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録21:13頁
《検討すればする程凄いの真実度》
ギリシャ本土からペロポンネソス半島に入る狭い回廊を通ると、
すぐ南に伸びた湾がある。
その北端にミケーネがあるが、
その位置関係は、鹿児島湾北端にある国分・隼人と、
湾の形も大きさも、湾口の方向も、町の位置も、気候風土まで、
余りにもそっくりだったのである。
その隼人町に若三毛野命=神武天皇が東征に出発した地点・高千穂の宮がある。
『古事記』の記録がどんなに正確で素晴らしく、
いい加減なものではなかったか、よくわかる。
ミケーネから来た人々は、その故郷そっくりな環境に驚喜し、そこをミケーネと呼んで、
都を置いたのである。
若の字はジャク=邪久=屋久島だから、完全に位宮に一致している。
その支配者を大隅語で「若・三毛野(ミケヌ)」と当て字したのだ。
私たちは、そこが卑弥呼・倭国の首都や応神天皇の軽の明の宮になり、
姫木山や鹿児島神宮が残っていることを知っている。
しかしギリシャ人がなぜ?そんな日本列島の南端、現代でも辺地である、
そんな土地に、たとえ足掛かりに過ぎなかったにしろ、王都を置いたのか?
と深い疑問に悩まされてきた。
その疑問がいま、このミケーネとの地理環境の一致で一度に氷解した。
これで卑弥呼がなぜ?そこへ戻ったのかも疑いを残さない。
『魏書倭人章』はここまで解明できなければ、
これらの大きな疑惑が障害になって、
真相を正しく把握することはできなかったのである。
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